「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

SALUTON通信 150号

  • ボタンについて

サルートン通信(一五〇号) 一九七三年八月五日

 別記のように<向井孝小詩集>を出すつもりで準備している。それとは別に、八月五日大阪天王寺公園でやる<反戦市民懇談会>の、八・六原爆投下の日をテーマとした<大道芸と露店市?>あるいはゲリラ・シアターとバザールに参加のため、とくにこの一枚をつくることにした。原水爆問題に起因して書いた、ぼくの旧い作品(さきに上梓された日本原爆詩集やイオム同盟詩集、その他の本に収録されたのは除いて)もっぱら物語的な傾向のものを事実によった資料の意味も含めて披露する。

 ぼくの詩をはじめてみて、ヘェーアイツ詩もかくのか、とアキレル人もたくさんいるだろう。オナグサミである。

  • ボタンについて

ぼくが君のズボンの尻ポケットで、いまにもちぎれそうになりながら、ぶらぶら、いつまでもくっついていたうちは、まあよいのだ。またぼくが、彼女の乳房のふくらみの上にかざられて、しごく退屈していたあいだも、まずよかった。(ゆうべ、君がだいぶんよっぱらったあげく、その彼女のブラウスの先端に、そしらぬふりでちょっとさわったりした。がそれもまあカンベンしてやろう――)

だが向井孝よ

君が何かいらいらして、胸のまん中にあるぼくをはめたりはずしたりするいつもの癖は、断乎としてやめておいたほうがよかったのだ。

真珠色の貝がらのぼくプラスティックや硬質ガラス製のキラキラするぼく

銀やしんちゅうや黄金めっきでひかりかがやくぼく

ぼくらは君が生活するみのまわりで、きのうまではしごく平和にくらしていた。

そしてぼくらは、何か不吉な予感におびえながら、きのうは世界中で、さりげなく仕事の部所についていたのだった。

 

だが今朝、とうとう君は、出勤のきがえを急ぎながら とつぜん、たしかに強く、ぼくをぐいっとねじったのだ。

しゅんかん、おもての方で大音響がおこった。すると、見えない遠い空のはるかで、はげしく大きな火の玉がもえあがり、みるみる大入道雲が、市街のうえに圧しかぶさってきたのだ。

方百里。すべてのものは蒸発し はじけとんだ。うすらあかりにひろがった死の砂漠の真中にひとつ、にぶくただれてころがっている小さなもの……それが今の、ぼくだ。

そして、君は……もちろん消えてしまってどこにもいない。

だが、ああ、あのとき君の女房と小さい子どもたちは、オハヨウとあいさつをかわし無心に、まだ朝飯をたべようとするところだったのだ (一九五九年作)

  • 四一番目

屋根うらの五階体を斜めに、せまい通路をぬけて階段を上がる、つきあたりの物置小屋きしむとびらをあけるとしみだらけの壁にとり囲まれて、木のベットがひとつ天井から下がった裸電灯にてらされていつまでも動かない老女の顔がうす眼をあけて、こちらをみている。身じろぐとベットがいやな音をたてる(くらい急な木の階段。ゆっくりゆっくり近づいてくる足音)[もういや……私は逃げない。長い間だった。四一番目。私でさいご」ふと手をのばして枕許をさがす(いつしか、クセになってしまった―)その古びた一枚の写真の中で、工場の花壇を前に、お下げ髪の少女が四一人、一せいにわらい出している。(手あかにすれ、茶色に変色してしまった青春)

 

一九一六年。ニュージャージー州オレンジの

 アメリカン・ラジウム会社へ入社した私たち

 の仕事は夜光時計の文字盤かきだった。

(ああお茶目で泣虫だったキャロル。そのよ

 こでびっくりしたように眼をつぶっている

 ジェリー)

先天性悪性貧血と云われて、一番先にリタ

 が死んだあと、だんだん私たちも体がおか

 しくなったのだった。

(でもまだ何もしらずに、私たちはラジウム

 塗料がついた筆の穂先をなめなめ、時計

  の文字をかいていた。)

一九三五年。スージーがガンと診断されて

 死んだのが三二番目

(それから私の毎日は、病院から病院へ

 夢中で逃げまわるだけだった。)

三八番 グレイス

三九番 スーザン

 

一九五五年。

そのころ日本からきたケロイドの娘たちと

 一しょに、私は医者から医者へと廻さ

れて、珍しい見世物のように調べられ

た。

私の病名は、ラジウム放射能による複雑

 性骨ガン。

(だが、私はとうとう逃げてやった。クリス

マスの晩に、あいつらから――)

一九五六年、アネットが入院したまま

 家にかえれず、とうとう死んだ。四〇

 番目。

そのあとは、そして誰もいない。

 

(しかし番号だけが残っている。四一番)

ふと老女はまわりをみまわす

さっきから、むこうのカベが煙のよう

 にぐにゃぐにゃ崩れながら、遠

 ざかっていく

その視野の一点に、妙にはっきり見え

 ている、カベの日めくりの数字

「一九五八年九月二日。土曜日」

(あの日付は、明日からいつまでもその

 ままだ)

(あ、足音が、そこまできている!)

一しゅん女の全身を白い閃光が つ

 らぬいて羽ばたく

「カム・イン。プリーズ」

(老女はうっすら口をあけて、一心ほほ

 えもうとする。)

その顔が、天井から這い下った裸電灯

に照らされて―小さく苦悶の歯を

みせたまま、扉にむいて―もう動か

ない。

(シミだらけのカベに囲まれた木のベットの上)

ミス・ルーシ・サリバン。五七才。四一

 番目……(一九五九年作)

 

バタビア

一九五七年四月、バタビア新聞

は、紙面の片隅に短く、男の不

審な死を報じた。数日後それを

転載したオランダの新聞はその

男が、二年前、国連信託統治委

員会へ水爆実験禁止陳情にいっ

たのち行方不明となった、マー

シャル群島住民代表であるらし

いことをしるしていた。

 

丘の上の午後。

その真下にひろがっている熱帯の街

岩かげから男が立ちあがる

汗じみたシャツの背中をみせて――

そのままいつまでもうごかない

アドバルーンが下から昇ってきた

眼のまえの空で、陽射しに反射しながら

 標的のように、ゆっくりと停る

風はない。

「ヘイ、ユウ!」

彼方からたまりかねたように、とつぜん声

 がおこる。

つづいて威嚇の、硬いピストルの音がひびく

男は、ふりむきざま構えて、岩の向うに倒れ

 こんでいる。

 

(―あいつの名はジンネマン。ドイツ系混血

ミクロネシア。三八才。身長一メートル六八。

二年前、ビキニにおける水爆実験中止嘆願の

ために、国連本部へいったマーシャル群島住

民の代表。欧州まわりでの帰路とつぜん脱走、

行方不明となったが、四日前とうとう発見。

無電報告で手配したアメリカ潜水艦が、あい

つを逮捕して―連れていくために、今朝から

湾外で待っている。)

 

荒い息で男は胸をおさえている

その指がみるみる血汐で汚れていく

苦痛がはげしく足先から這いのぼってくる

その細長い体がゆらゆらゆれる

こぼれる血をよろめく足がふみにじる

「ヘイ、逃げるな。何もしない。」

ふたたびパアーンとピストルがひびく。

応射。

男の顔一面から、びっしょり、こまかい油汗

 が吹き出している

ぐいぐい体から血がひいていく

景色がしだいに小さく遠のいていく。

(……あたりは妙にうすぐらい…… 

   いつのまにかひたひた波がよせてくる

   手・胸・肩と浸しだす

   いったい、ここは、どこだ。

   見まわすと、うすくらがり海上

   一めん おれたち仲間の顔が、みわた

   すかぎり浮いている

   アメリカ人は一人もいない

   どこかで、時計の刻音が、しだいに

   はっきりきこえてくる。

   ……17……16……15

   あの秒よみの声は聞き覚えが

   ある……

   ……4……3……2……1……0

   スクリーン全面にゆらりと灯って、暗が

   りから不気味に輝きだした夢魔、の

   ようなもの――

   音はない。

   のろのろ拡がって四方から蔽いかぶさって

   くる巨大な光の幕

   無音のどんどろ太鼓のように、陰にこもっ

   て四方にとびちるムチに似た爆風

   一めんにひろがり垂れさがり、塗り込めて

   うずまくもの

   めくらみ、むせ、ころび とびちり、からみ

   あいながら、逃げまどっているおれた

   ちの影――

   ああ、そうだ。これはいつか国連本部

   でみせられた、水爆実験の映画だ!)

 

男は思わず眼をひらく。

そのひたいのしわがぎらぎら油汗で光る

男のもたれていた岩土が、背中の方でざら

ざらおちる。

立木の陰がゆっくり回ってきて、その蒼ざ

めた横顔にとまる。

(ああマーシャル!

 お前と別れた日、私は一体どこへ

 と旅立ってしまったのか!

 クェゼリンのアメリカ人は、私をうま

 く引きまわして、すべてをお膳立てど

 おりに運んでしまった

 そして私にあてがったのは、白い女と、

 いつも外からカギのかかった――

 豪華なベットの部屋

ニューヨーク。ハリウッド。ナイアガラ。

それからパリ。マドリッド。ベニス。

だがある日、私はとつぜんお前を思い出

した。そして私がいつのまにかお前の裏

切り者になっていることも――

ローマで私は病気になり、そこで三人の

監視をまいて脱走した

それから一年三ヶ月、ようやく私は

ここまでやってきた。

もうすぐだ。私がおまえのところ

へかえりつくのは……

 

男ははげしくあえぐ

あえぎながら、宙にみひらいた眼が、見え

 ないなにかを熱っぽくさがす。

「ヘイ・カモン!殺しはしない!」

男の耳にはもうそれが聞こえない

ふとそのまなざしが、何かをみつけたように

 一点にとまって、遠くをみつめながら

 一しゅん、ゆっくり、みるみる凍りつく――

 

丘の上の午後

ピストルを投げ出したまま、岩に倒れた

 男はうごかない

胸から流れ出る血が土の上に黒く滲んで

 ひろがっていく

「ヘイ・ジンネマン大丈夫だ。手をあげろ」

アドバルーンが眼の前の空でゆっくりゆれている。

その下の街をきらきら光ってゆく小さなバス。

十字路をいまアリのようにどっと渡っていく人。

遠くバタビア港一めんは海がまぶしく光って

 まるでみえない

風が、出てきた――   (一九五九年作)

 

赤い煙

一めんひろがった 青田のはてに

富士鉄広畑の大煙突が七本

まぶしい高空の中で

猛烈に赤い煙を吐いている。

 

煙は高い空中で一たんきのこ雲となり

風に乗って今日は

手柄山のすそからヒメジ市街中心へ流れて

十二階のヤマトヤシキビルや姫路城解体現場を

まっかに染めてかすんでいる。

 

田植時、苗がよくないのは畑へおりた煙の

 せいだ、と

みんながさわいだことがあった。

製鉄所側が広告を出して

害があるか、どうか、調べます

と云ったのでうやむやになってしまった。

 

それで赤い煙は毎日、空に昇って雲となり

無色無臭にうすめられて

まるで放射能のようにひっそりと

知らぬまに人らのまわりにやってくる

だが、放射能とちがうから

まあ、赤い煙は安心だ!

 

「先生、今日の赤い煙はげんばくみたいや」

海水浴行きの小学生の一団が

道いっぱいにはみだして、しゃべっている。

カメヤマエキへ向う青田の中

子らの白い帽子が眩しくむらがり

はるかに大国道がまっすぐシカマ港へと走り去る

その国道沿いのトラックが小さく出入りして

 いる材木市場のまえで

手をあげている助手の、オーライという声

 がきこえてきそうな

まわりは明るくのんびりした――一めん眼

 くらむような夏野の景色だ。

 

しかしその頭上はるかに高く

赤い煙が猛烈に立上り

ゆっくり崩れて頭上にひろがってくる

赤い煙は毎日人目につく

それはいわくあり気にぶきみで

そのくせぼくらに何も思い出させはしない。

ぼくらは赤い煙をみて

ああ今日もか、と何かいやな気持になる

だがともかく赤い放射能ではない。

(一九五九年作)

 

続・赤い煙

午前十時すぎの稲田の黄色い光の真中で

カメヤマエキは、もう一時間も電車がこな

 いようなひっそりしたしずけさだ。

たださっきから、犬が一匹しつこく吠え

 つづけている。

(いったい何に吠えているのだろう)

はるか野をへだてた大国道のむこう

今日も 広畑製鉄所の七本煙突から

赤い煙がいっせいに吹きあがっている。

(七本のうち一本だけ煙が出ていない)

赤い煙のかたまりは、低い雲の層にぶ

 つかって、それから

猛烈にシカマの町へと降りていく

シカマの町は、ミユキ通りも、行き

 かう小さな人の粒も

日本一の関電火力発電所の大建築も

まるで日暮れのように赤くけむっている。

 

「しかし赤い煙は絶対無害です。放

射能があるなどデマにすぎません」

こんな宣伝広告が新聞にのったのは

 あれはたしか夏頃だった。

(放射能は目にみえるものものじゃないか

 ら、それはたしかにそうだろう。

だがそれが目にみえてたら、ぼくらはこ

 んなにのんびりしているだろうか)

「今当所では約五千万かけて、一本の

 煙突に脱色脱臭装置をつくっ

 ています。これが効果的なら、おい

 おい、あと六本に及ぼすつもりです」

(それで、一本だけ煙がみえないわけだ)

 

ホームに二、三人、人影がふえる――

遠くからヒメジ発の〓〓電車

 がみえてきた。

まだしきりに犬が吠えている

(いつになったらやむだろう)

 

七時四二分の網干エキ普通車

電車は稲田の中をみるみる速度を

 ましていく。

(赤くにごったシカマの町が、近づく

 につれ、しだいに明るく晴れてくる)

車内はがらんとしてまばらだが、ひ

 どいちらかりようだ。

(こんなに荷物が多いのは買出し

 のせいだろう)

駅ちかくの踏切り

きらりと光りながら路上をバスが

 やってくる。

遮断機の前で若い女が見上げてい

 る。

その買物カゴの中の、陽をあびて

 白い白菜

と、道全体がみんな一しょに ざわめ

 いて、一しゅん明るく走りすぎる

それはおひるまえの、生き生きし

 た輝く町の景色だ)

(赤い煙は――もう見えない)

だが、ふとふりかえると、電車

 の後部の空いっぱい、今きた

 あたり

赤い煙がびっしり立こめていて

(さっきぼくが立っていたカメヤマ

 エキから、一望はるかにひろが

 った稲田の果の姫路まで)

いつのまにか夕ぐれのようにうすぐ

 らく

そこら一めん 赤い無気味な野

 づらになっている

(あの犬はまだ吠えているだろうか)

 

メモーロ号

     航海記補遺

一九六四年……

予らが世界周遊のヨット、メモ

 ーロ号の行程は、ようやく終り

 に近づいていた。

ポナペからウエークを目指し、無

 風になやみながら、数日間、

 熱帯の海をただよった。

三月一日午前二時すぎ、月明の海上

 から待望の微風が起った。

ヨットはへさきを北北東にむけ、僅

 か三ノットの微速ながら静かに海

 面を進んだ。

満目さえぎるものもない、眩しい〓

 めきの海である。

と、たしかに数人の弱々しいうたご

 えが風にのって渡るようであった。

予らは甲板に出て「何デアロウカ」

 と話合ったが、それはいつまでも

 断続した。

すでにその頃より、水夫ジンネは、し

 きりに海上をみまわして落付か

ぬふうであったのである。

「呀! アレハ何か?」

予は左舷前方のかなたに、おぼろ

 に浮上っている陸影をみた。

その影は牧場のように、一めん柔い草

 に蔽われてそのまま海へと崩れていた。

奇妙に平べったく伸びた姿から、全

体にかげろうの如き光を発している。

木ひとつ生えていない。

人影はもちろんなかった。

「オウ、オレラノ島!」

かたわらにあった水夫ジンネは、

 呻くように叫んだ。

「ビキニ?」

予は思わずおどろきの声をあげ

 たが、そのしゅん間、彼が拾年

 前ビキニを追われてキリ島へと

 離散した――かの一六七人の住

 民のひとりであることを思いだ

 したのである

すると右舷ちかく暗い海上から

 うた声がきこえた。

見ればいつの間にか近よっていた小さなイ

カダが、わがメモーロ号の影から抜け

出すように月光の中へまぎれていく。

この時ジンネは狂気した如く叫んだ。

その声が波を渡っていくと、一しゅん

 海上のうたごえがやみ、しわがれ声が

 返ってきた。

「オマエハ タレカ。ぱぷん あだんハ

 オレラの名だが、今ドコカデヨン

ダオ前ハダレカ。」

応えるようにジンネの絶叫がおこった。

イカダの上には、横たわった二つの死体と

櫂をうごかす二人が小さく月に照らされ

 ている。

と、再び 祈りのうたがしずかに海上を渡

 りだした。

 

一九五四年。ビキニからキリ島へ移され

たオレたち仲間は、みんなふしぎな病気

になった。

やがて大きな鉄の舟がやってきて、何週間

もオレラの血をとったり皮をむいたりした。

それから、あちこちの島にわけられて、ば

らばらになり、すこしなおったり、急に悪

くなって、だんだん死んですくなくなった。

だれもビキニへかえれなかった。

おれら四人はロンゲにいたが、はじめにサラ

とカンナが弱りだした。

ビキニに生まれたものの死の寝床は、ビキニ

の砂浜ときまっている

その砂浜の寝床から、やがてまっかな

ジロウの花がさく。

すると七日七夜の明け方に、死んだ

おれらは眼をさまして、再び寝床か

ら生まれてこられるのだ。

ビキニの浜で死ぬために、ビキニの寝床

でねむるために、だからオレラは四日も

かかって、ようやくここまでやってき

た……

 

予はその時みんなの制止をふりきって

虚空に一躍した人影が水中に落下す

るひびきを聞いた。

やがて波間にジンネの黒く濡れた頭

が浮上ったが、それは予らへの合図

のように、二度ばかり金色の水しぶきを

あげると、みるみる月光の中へ泳ぎ

入り、忽ち光芒にまぎれてしまったの

である

予らは一たん彼を追わんとして、しばら

く、ビキニの島に近づきかけたが、ついに

恐怖のためそれを果さず、早々にしてその

場より立去る外なかった。

(一九五九年作)

 

たべること

<生活する>ということ――あるいは<日常>ということの中心は、たべることなんだナ、ということが、ナントこのごろになって、実感的にわかってきた気がする。そして、実に大へんなことだ、ということが―― 

第一に「何をたべるか」をまず考え、きめること。

第二に「その材料をととのえること」 買物にいき、見廻き、購入して、それをカゴに入れて持帰ること。

第三に「その品物の処理、保存、使用」つまり管理。

とくに、米・ミソ・醤油・砂糖・塩・ミリン・油・ダシ・白玉粉・小麦粉・辛子・コショー等の常備・補給。(ついでに云えば、トイレットペーパーから石けん・ハミガキ・洗剤まで、うっかりすると、すぐ切れてる)

第四に、いよいよその調理。(例えば煮物なら、その強弱火加減と時間。冷やっこにしても、キザミネギやショーガ、カラシ、カツオブシ、醤油を加工したタレという風に、ちょっとのことでうまくなる。)

 第五に、容器へのもりつけ、おぜんのととのえ(準備するのをお膳立てという意味がしみじみわかった)

……こうして、やっとたべはじめるのだが、おっとどっこい、それ迄に調理につかった、ナベ・カマ・フライパン・杓・ハシ・金へらなどの洗いゆすぎ、ふき、所定の場所へかけたり、おいたりの仕事がある。それが第六。 第七が食事。(アッお茶ワカスの忘れた!)

そしてものの数十分でたべ終ると、こんどは食器類を台所へはこんでのあと片付け。洗いものと食器の収蔵・厨芥ゴミ類をすてる――ということで、ようやく終るのである。その前後すくなくて二時間余はかかるだろう。

 

さてここ数年同居人だったSS君が家へかえってから凡そ一年――そのごも時々きたり、又臨時の同居人がいつもいて――何となくその役を誰となくやって――もちろんぼくが中心だから、つくったり、片付けたりは今迄からやっていたのでぼくも分担して――すごしてきたわけである。ところが、とくにここ数ヶ月、その仕事――別して右の第一から六ぐらいまで、ぼく自身その受持ちを買って出て、毎日毎日のくりかえし、その仕事の累積のなかで、がぜん<たべること>がぼくの一日で重大な比重を占めることになってきたのである。

いまサルートンでは大体毎日(ぼくの姫路へ帰る日をのぞいて)三人で夕めしをたべるのだが、つとめから帰る時間が、常時ぼくが他より一時間以上早く、従って夕食の支度はぼくがする以外にない。交替にというわけにはいかないのである。

はじめは思いつきでよかった。しかし一ヶ月もたつと――

第一に、今夜なにをたべるか――自分をもふくめて、何をみんなにたべさせるか――が大問題である。(こんなに大へんなものとは、今迄全く考えなかった。ずっと行きあたりばったりでいけると思っていた。)

第二に、ぼくは比較的段取りよく準備する方だと思うが、その時間というもの一時間余はびっしりかかり、しかもその間わき目もふらぬ精励ぶり、なまけや手間はぶきがゆるされない。終るとまさに一仕事した感じで、何となくぐったりする。

第三に、出来上がったものの調味のよしあしが大きく気分に作用する。仕上りがわるいと、よけいぐったり。それに、自分がよいと思っても、人は?と ついつい「どうや、どんな味や」とききたくなる。そして「うん、おいしい」という声でもきこうなら、ちょっと有頂天ナノダ。(ところが大体ぼく自身の過去の経験に徴しても、めったにオイシイとかアア、オイシカッタなどと云わぬものである。かって女房がぼくに何ど「どう、今日の味は?」ときいただろうか。そのときぼくは、半分そう思っても冗談まじりにクサシタリわけしり顔に「うん、まあまあ」ぐらいで、ひどい仕打ちを無意識に加えていたのだった)

第三は、数人でたべるとき(ぼくは一つの皿に盛って、それを各自任意に自分の小皿にとるという方針)絶対といってよい位、その皿にのこるということだ。それもほんのちょっぴりずつ、どれもこれものこる。その<のこり物>を整理片付けるのが、一般の家庭では、一家の主婦――母親――の役目なのが判った。つまり彼女が、自分のものを一人前とるのでなく、のころ物のしまつで、たべることをまかなって、一面ムダをなくす役割をしている。一家に誰かそのような人間がいることで、食事のあと片付けもスムーズにいく――というわけなのであった。ところでサルートンでは?(ワークキャンプの合宿や、共同体では大抵盛り分け方式がそこではとられることが多いが、それが永続きすると物足りなさとしての精神的飢餓感を与えるものとなるだろう)

サルートンでは、はじめ、のこりそうになるとぼくがせっせとそれをたべるということで片付けていたが、このごろでは、のこさないのを立前に(のこすなら明日朝用につかえる位のこす) みんながその配慮をしてたべる――ということに申合わせた。母親役をみんなが分担し、意識してたべるということである。そのようにして尚かつ、まだちょっぴりは、最後の母親役が必要なのである。

この三点に、自分がつくること――他にもたべさせることをやりだして、やっと気付いたのだから、いまさらながら、はずかしい。ということは五十何年間毎日たべてきて、実は自分でたべたのではなく、殆ど他人の厄介になって<たべさせてもらってきた>ということに他ならない。

<たべる>とは第一の何をたべるかの決定から、第十一のおぜんをふき終わり、たたんでしまうまでのことの完全な履行をこそ云わねばならない。

単にあとかたづけに茶ワンを洗って、洗いカゴのザルの上にふせた位、何のことはない。

たべるとは、自分を<たべさせる>ことであり、それは、他人にたべさせることと寸分かわらない経過の上にある。とすれば、ぼくらのほとんどは――家庭の主婦や、別の意味での食堂の従事者の食事提供行為をのぞいて――たべているのではなく、誰かの負担によってたべさせてもらっている。

そしてその誰かのほとんどは<女性>であることに、ぼくは改めておどろき、驚異と賛嘆のおもいをこめて、今迄のことありがとうと、ここで云っておきたい。

生活すること――たべること――日常、そして<日常性>の問題の、きわめて初歩的な第一歩が、実はこんなところにあった。今頃になってわかった。今迄リクツだけで、そのようなことをしゃべっていたが、この実感に対して、全くそらぞらしい。はずかしいことである。

 

ぼくらは、一人で<たべる>ことをいつもつづけることはできない。たべさせたり、たべさせてもらったり、その一部を自分がやることで、他のたべる仕事と合体する以外にない。そのことをまず銘記しよう。

(それでなければ<たべる>だけで殆どくたびれて、全く何もせず死ぬことになるだろう。)

このことがはっきりするならば、ぼくらのいわゆる<たべる>ことは、すくなくともそのたべ方において、変わらねばならないだろう。つまりやや牽強付会的に云えば、一四六号ですこし触れた<関係>と<役割><やさしさ><同定作業>の問題である。

<たべること>は、まさにそのことを意識的に行うことで<真にたべる>ことになるのである。

(ぼくが今、心に思っていることは、もし人に「何をたべようか、何がいい」ときかれたら、「何でもよい」というような答えの代わりに、できる丈具体的な品目を、限定された条件を考慮の上回答し、或いはその調理を自分が手伝ったり、する、ということである。また提供された食事に対して、おいしいときは心から、ああうまいなあ、ということである。さらに、食膳の上のものを、みんなの箸づかいをみながら、母親のように、自分のたべ方で過不足を調整することである。も一つ台所のゴミ缶にたまったごみは、ポリ袋に入れ、表のゴミ箱へすててくることである)

追記・<たべること>を云えば当然、<きること><ねること>も出てこなければならないが、それが――つまり日々の生きていくためのいとなみ――生活が、ひとりぽっちでは、とても大へんなことだということ、その感慨だけを付記しておく。

 

あさひまちから

○ 一五〇号記念(?何を記念するのかわからないが)ともかくそんな名目でもつけないとつくれそうもなにので、自分ひとりのなぐさめとして、<向井孝小詩集>を刊行しようと思い立った。といっても表紙は、小松さんの追悼文集の裁断のきれっぱし(丁度一二九冊できる)。もちろんガリ手製。タテ五センチヨコ八センチ位のしろもの。内容は、イオム同盟詩集以後(年に一篇ほどしか発表しなかった)の、もはや詩として評価に値せぬ――といってよいものばかりだから、勿論これまた世に問うというものではない。旧い知友にあいさつ代わりに送ったのこりは、サルートン読者に申出があれば贈呈する。(希望は何かプレゼント交換みたいに ?を贈って下さることなのだが――つまりぼく宛の手紙とか、絵葉書や写真とか、手づくりの小物、あるいは切手切符?など)。発行は八月中・下旬、それから先着申込順に製本して順次おとどけするつもり。このガリ切り、印刷、裁断、折り、綴じ、表紙つけ、発送の手伝い人(八月上旬より約半ヵ月)を求めます。その間サルートンでの居住、三食提供します。

○ 夏休ミなどで大阪周辺へ来られる方は、サルートンへぜひお立寄り下さい。但し第一日目一泊だけは無料で歓待しますが、二泊目からは明確な用件のないかぎり、うっかりすると追い出されるものと思って下さい。また突然でなく、必ず前に予告を。

○ <自由連合への旅> 九月にやるべく計画中。同行希望者は申込んで下さい。詳細について打合わせます。いまちょっと計算すると、宿賃を〇にしても一万円以上旅費と食事にかかるので困っています。人数は五~八人位迄、いろいろアイディアはあるのですが、さて実際は?

○ 九月一日、東京六本木自由劇場で、佐倉佳子さんら青俳演劇研究所の有志生徒?が、よるひる一回自主公演をするそうです。時間とお金のある方は……(ぼくもいこうかナと思ったり――どうせヘタクソでオモロナイヤロと思案したり……ついでの九月二日(日)に石川さん宅へいって文献セイリをしようかと考えたり……)

○ もう若干以前のことになるのだろうと思うが、最近三菱重工で、新入社員の一せい造反があった、ということをきいた。何でも新入社員の教育研修みたいなとき、人事部長が「教育勅語」をみんなに朗読させようとしたとか、しそこなったとか。そのトラブルで人事部長は依願退職とか……。くわしくわかれば改めてかく。(誰かしってる人いませんか。ぼくは利害関係をもつ一株々主なのダ) これが事実とすれば、天下の大三菱、新聞や週刊紙誌の大特ダネであるのに、どこもかかないのはオカシイ。即ち、早速会社は手を廻し金を廻してモミケシタにちがいない。新聞や週刊紙もまたそれでダマリコムのが問題だ。がまあそれはそれとして、数十・百をかぞえる新聞、紙誌をダマリコマせ、総会屋やリャク屋を手なずける手腕はさすが三菱。しかし、それに使消した巨額の金は、株主にとって問題である。簡単にボロを出すまいが閲覧請求して帳簿を一ぺんしらべたろか。?

○ 七月六・七・八日富士宮・沼津は参加計二六名。山鹿文庫の二階くずれんばかり?(特報・白糸の滝での決死行。三津海岸で、あわや水死のH・H君を抜き手をきって救助!)

 

   新発送名簿作成について

○ 一五〇号から、新名簿で、改めて確認した方だけへお送りするつもりだったが、まだ完全に整理できてない。

 (「可」と返事を下さった方、封筒を送ってもらった方だけにすると約半分(二百)位で、発送には丁度都合がよい程の量だが、しかし一、二号前に封筒が切れた方など打切りにしてよいかどうか、と迷うので)今号は、あべこべに従来、打切りにした方なども一部復活して、一五〇号ということで(内容はさっぱり特別ではないが)打切り可否の意向を伺う意味で、お送りすることとした。

 そこであらためて、おねがいをします。

 1、つづいて読んでやろうという方は、「可」とのみでよろしく、おハガキをお送り下さい。 又は、宛名記入済み二〇円切手をはった封筒(結局これはノリ付きでお送りしますから、切手は御自分へ還元されます)五枚~十枚まとめてお送り頂くと尚幸いです。カンパより、封筒を送って下さる方がうれしいです。

 2、「否」の方はことさら御返事は不要です。(御返事ない場合、親疎にかかわらず、事務的に中止させて頂きます。あしからずご了承下さい。

 

 

サルートン151号 一九七三年八月十八日発行

 ○ ぼくは案外ヨワそうでタフなのである。この二十年カゼ熱位がせいぜい。医者にかからず、クスリはのまず、「夏ヤセなんて何のこと」で暮らしてきたが、ことしは三~四月ごろから何やら心うつうつたのしまず、夏になって晴れたかと思ったがまたブリカエしがきた。というわけで六〇キロの体重が昨夜の計量で五五キロ。丁度一ヶ月に一キロずつへる勘定。さすがに何となくしんどいが、まあ別段の日常事に差支えなし。この調子で毎月一キロ、本年末には五〇キロの目標へと、そして来年の今頃は、日頃のぞみの大願成就――四〇数キロになりはてて、身も心もかるくなって、イザサラバ……なんて冗談まじり、ウソ半分の今日此の頃。まずは残暑のお見舞まで――

 

八月五日の天王寺公園 大阪

 <反戦市民懇談会>と銘うつと一体ドンナ? と云うことになるが、定めも、会員もはっきりしない――ただ最初よびかけに使ったそのままを踏襲しているだけで、何が反戦やら、変革やら。それは集まってきた各自それぞれの考えで――ということ。だから、そのメンバーは、と云えば、数年前関西べ平連なるものがうごいていた頃、デモでもあると、野次馬半分それにとびこんだり、旗やプラカードをつくって小グループで集まりをしたりしていた連中や、そのご何もいまはやることがなくて――何かオモロイことあれへんか、どこかに一しょに何かする仲間はおれへんか――と、キョロキョロ、金はないがまあ時間?もない――という連中。十人・十五人ばかり。月一回ナンダイベの空き室に集まって、ともかくそれぞれの立場立場で、一しょにやれることをやりましょうということなのである。

 

 八月五日はあたかも広島へ原爆が投下された六日の前日。大道芸と露店市、あるいは<ゲリラシアターとバザール>と銘うって、原爆ヒロシマを焦点にあてた行動をやる申し合わせ。たまたま毎日新聞に報道されたので、新しいグループ?個人の開店や見物も入りまじって、一同、三十人ぐらいになっただろうか。

 炎天三十六度の白日の下、ゲリラシアターは練習をも含めて、大公演四回余。大のオトコ・オンナがとつぜん地面にばたばた倒れて、うめいたり、まるでキチガイよろしく、B29になってうなり声をあげて疾駆旋回したり、あるいは一せいに声もかれんばかりのシュプレヒコール。みんな白けると思いのほか、案外の熱演、名優ぶり。さて植物園前の公園道路にずらりとならんだ出店は、〓出張プレイガイド吉本興業ならぬ向井組の、琉球春歌嘉手納林昌独演会切符前売り。芳村商会の竹トンボ(大好評売り切れ)、反戦・反自衛隊、反三菱など各種ステッカーをあきなう北村屋。苦心のシルクスクリーン印刷で原爆図複製と被爆写真数十点をずらりとならべた赤坂グループ。反戦マッチ。スイガラ入れ。一ヶ二百円のペンダントにブローチのたぐい、細工の精妙なところ、意匠の奇抜にしてワイセツなところ、手にとってトクごろうじろとは岡本組の商売、そのよこで切紙細工の実演?つぎつぎつくり出すめもあやにひとつひとつの品がちがう玩具細工は万華鏡の如き和田商店の出陳物(子どもたちが眼の色かえてほしがるさまは、やっぱりさすが丹精こめただけのねうちで安い)。その他<詩のしんぶん>販売店、ギター片手のミニコミや(きこえてくるうたもギターもプロ級。たまたまサルートン一五〇号をわたしたら「アッ向井さんですか」というわけで、数年前フォークソング用に作詞した「云いなさい」を作曲、レパートリーの一つにしているという。本人の前でテレルなあ、という彼にたってそれを所望、うたってもらったが、ナカナカぼくの詩もチョイとしたものだったノデス。みんな手拍子うって、女の子は腰ふっての、時ならぬ街頭リサイタル)そのとなりは、こむらど四号販売所――……と凡そならべならんだ露店の数は十あまり、たちまち行き交う人の足をとどめて千客万来、サクラもまじった(これもロールプレイというわけ)お客は、来りまた散っての大ニギワイという情景であった。(次回は多分十月  ――乞う問合せ――)

 

全国懇談会へ配布のために  八月十八日十九日 於京都会館

 反戦市民運動全国懇談会実行委は、会議を『再び運動を創り出すために』という方向で

① いま私たちはどこにいるのか(特に市民運動原則の確認と今後の課題)

② それでは主要な敵は(今後の市民運動の中心課題)

③ よこのつながりを求めて

の三点について話しあいたい、と知らせてきている。

 ぼくらの<姫路行動>をふくめて、いま運動は一般的に沈滞している。それを一気に逆転させるようなことを話し合いで生み出すことは到底できないだろうが、このままジリ貧化するものをささえ、おしとどめて、すくなくとも次の昂揚まで持ちこたえるために、いまこのごろは大切な時期だとおもう。

 景気のよいときはさほどハリキラナクてもよい。弱り目のとき、人らが遠のいていくときこそ、ひとりでもガンバラナクチャ――というのが日頃からの持論であり、ぼくの運動論だった。とすれば、実行委のさまざまな準備の手間とその要請に、多少でもこたえるような心構えで性根をすえて参加せねば――というわけである。

 といって、このきわめて根底的なテーマに対し、どうまとめをしたらよいか、いささかたじろぎながら、ともかく、ごく身辺的な視点から、ごく簡単に考えをかくことにする。

(八月十六日)

 

ひけ目・おい目のこと

 ぼくらは<市民>を名乗っている。そもそも市民ということばの内容は、すこぶるあいまいで、人それぞれで異なっている。市民ときくだけで、マイホームの小さな応接室に洋酒瓶の棚、百科事典をならべた中産階級インテリを思いうかべて反感やケイベツをもつ人もいるだろうし、いわゆる良識層というヤツで社会の中堅?と受取る人もあるだろう。(ぼくは、庶民・大衆・国民・人民などの類語のうち、庶民に近い感じの、英語で云うピープルといった、きわめてひろい概念を、これに与えたいのだが――)

 それはともかく、ぼくらが自らを市民と呼ぶのは日常生活とくに生活点において市民だということだろう。その意味では工場労働者も、教師も、田中角栄も家へ帰れば、市民である。だが一般に、労働者は<労働者>であるし、田中は<総理大臣>であって、あえて市民とは名乗らないという状況がある。

 さらに云えば、そのような<市民社会>から差別され疎外されている多くの人々――たとえば釜ヶ崎の日雇い労働者のように、市民扱いされないことで市民でない――<生活点>を奪われた<非市民>が存在している。

 そしてこの二者に挟撃?されながら、ぼくらだけがいま、あえて<市民>を名乗り<市民運動>を呼称するということにおいて、きわめて<特殊化>し<異端化>したものとして、市民社会の街頭、ごく一部には生活点に、存在する。

 このように<市民社会>は、異種の三つのものを包摂しつつ、<生産点>社会の足下に踏みかためられた土台として、生産を中核とする体制の一機能となっており、市民社会はたしかに存在するにもかかわらず、まっとうな市民は、どこにもいないのである。

 このことは、次のことをあきらかにしている。

 第一に、ぼくらが自らを市民とよび、反戦その他の運動をすすめるとしても、その市民とは、市民社会内における<特殊市民>あるいは<非市民>を意味している。(だから運動は、次第に市民社会からはねあがらざるをえず、一般生活者(生産点を中心においた)と隔絶、孤立化する。又彼らも、いくらよびかけても応えない。

 第二に、釜ヶ崎のように、市民社会外のものとして存在する<非市民>にとって、ぼくらの運動は<市民社会内部>のものでしかありえない。そして彼ら非市民にとっては、市民社会はいつの時か復帰すべきものなのではなく、まさに<市民社会解体>を実現することによって自らが解放される――その敵対象である。

 (<生活点>という用語については現代暴力論ノートをみて下さい)

 ひところ学生たちのなかに、心情的にセクトについていけず、べ平連的あり方に共鳴しながら、しかも学内セクトの諸運動に対して、学生べ平連が対等に存在しえないような、ひけ目、うしろめたさ、を感じるという傾向があった。

 だがその<ひけ目>は、第一に実はセクトに対してではなく、市民と名乗ることにおいての自己の存在基盤のあいまいさ――市民社会との関係の不明確の無意識の反映であり、第二に、市民社会外非市民に対して(自分は市民社会内非市民ともいうべき立場でありながら)全く<連合>するてだてを見出しえないままであることの<うしろめたさ>そしてそれゆえに<市民社会解体>を彼らの分まで背負いこんだ<負い目>ともいうべきもの――が潜在的にはたらいていたから――というべきだろう。

 もちろん、ぼくらが<市民>そして市民運動を名乗り運動をすすめることにおいて、それ本来はなんら「ひけ目」や「負い目」を感じなければならぬということではない。しかし市民運動が現実の市民社会の存在たらんとするとき(市民の定義が各人各様であり、不明確であることも所以して)いま<市民>の名そのものが、社会的に負っている<ひけ目>や<負い目>を明らかに自覚した場所から、つねに出発するのでなければならないだろう。

 ①の「いま私たちはどこにいるか」という問いに対して、ぼくは「この<ひけ目><負い目>をしっかと自己の内部に据えて、市民不在の市民社会をどのように解体するか」「あるいは<新しい「市民」>の概念と意味を創り出すために、自分の非市民的市民に固執した闘いを、<市民社会>にむけて、どう提起するか――を考えるべき地点にいる」と答えたい。――つまり<市民>と名のることは、市民不在、あるいは非市民というかたちで、その声を抹消されている<無告のピープル>総体を自分の一身に背負うことである。それを彼らはぼくらに託したのでなく許したのでもない。自ら買って出たのだ――という地点である。

 

 運動を連合としてとらえること

 いまぼくらの運動の真正面に巨きく立ちはだかるものは――それは敵としての定かな姿をみせないが――<市民不在の市民社会>ともいうべきものであろう。それは、例えば、多面的で凸凹や褶襞をもち、剛柔・硬軟さまざまな質をもつ部厚いゴム……の巨大なカベのようなものである。だから一つの運動体が、そのカベを攻めるといってもわずかにその一面・一部分にあたりうるにすぎない。とするならば、いかに強化され発展したとしてもぼくらの運動だけで、闘いうるものではない。

 すなわち、第一に、いまぼくらが必要なのは<他のさまざまな運動と連合して、はじめて運動は運動として成力し、力となる>という視点である。

 第二に、連合とは、自己と他の運動とが一つになることでは勿論ない。また直接的に協定したり、申し合わせたりして、例えば<共同行動>をつくることだけを云うのではない。

 それぞれが、直接の関係をもたなくても、その専門の分野での活動が、全体の一部分としてはたらいている――その<状況>総体を<連合>として、それぞれが認識すること、あるいは<そのような視点から、自他の運動をとらえること>である。

 第三に、とくにぼくらの市民運動は、それら諸運動のつくり出している<状況としての連合>の無自覚的――それゆえの各組織の非連合性に対して「<連合>の状況を顕示化する「役割」を、自らに課すことによって<自由連合>または<大連合>の媒体とならねばならない。」(その場合さきにのべた<ひけ目><負い目>的立場は重要な意味をもってくるだろう)それはまた運動と運動との間隙を埋めることでの「<連合>をつくり出す役割」もまた、ぼくらに課せられた運動そのものであることを意味するだろう。

 

サルートン通信(152号) 一九七三年九月十日

  七月二四二五日と九月四・五日と二回上京したが、いずれもトンボ帰り的な日程で、気になりながら石川さん宅へはいけなかった。いつ今度はするのかという二、三の問合せにも答えないまま失礼してしまった。次のように第二回石川三四郎文献整理作業を、皆さんに手伝ってもらってやりたい。集合九月二二日・十二時二〇分、京王線上北沢エキ。(石川さん宅地図はベラボーナ通信 P6あたり、ない方は折り返し申込んで下さい)

日時・九月二二日(土)午後一時より夕八時半頃まで。

     二三日(日)午前十一時より夕七時頃まで。

単純作業だから予備知識などは不要。男女年令学歴不問。中食あり。なるべくハガキ等で、手伝う方はぼくまで事前にしらせて頂くと、段取りができてありがたい。

 

“小さな宣言”の確認として

(イ)“戦争を考えるシンポジウム”(姫路)のこと。

 <姫路空襲を語りつぐ会>と<姫路文連>共催のシンポが八月十三日あった。人数は三十数人ばかり、(六十代以上の戦前派ともいうべき人たちが十人あまり。戦中派、戦時中、小中学生だった人をふくめて十人ほど、戦後派、戦無派とよばれる二〇代層が十人弱というような構成)。日共・民青その影響下のグループの人たちといった顔ぶれが多い気がしたが、一ヶ月程まえ出版された「姫路空襲の記録」に手記をよせた商店主やなど一般市民もまじっていた。

 それに参加して、いろいろ考えたこと、そこでしゃべったことをかきとめておく。(当夜のメモを紛失したので記憶にたよって。――だからごく印象に鮮明なことだけ――まちがっているかもしれない……)

         *                    *

 戦前派、つまり戦争経験者から、自己の身にふりかかった戦争の災厄、悲惨さおそろしさに即して、もう二度と戦争をおこしてはならないというおもいが、まず語られた。まるでぼくにとっての昭和十七・十八年頃がうつしだされたように、それぞれの表白がひとつひとつあざやかな印象で身に沁みた。当時日本中で、このような――個人の生死をかけた百・千万のドラマが人民のうえにおそいかかっていたのだった。しかも何とぼく(ら)は自分の運命のみに眼をうばわれ、同じような隣人の悲劇を見のがし、知らずにきたことだろうか――と改めて痛感した。

 隣人というとき、もうひとつのことに気づいて、はじめて実感的にぎょっとした。それは、戦争被害者としての自分、同じく被害者としての隣人をひろげていきながら、朝鮮・台湾・沖縄・南洋群島委任統治領の人々にまで至るときである。さらに侵略占領した中国・東南アジアなどの人民に対して、加害者として、自分が存在したという問題につきあたる。

 しかも、ぼくらは、日本軍国主義と天皇制によって戦禍をうけ、総数三百万?の死者を出したというとき、アジア諸国では二千万?の人々を殺している。この二千万?の死とともに、自己の戦争体験を語り、反戦を云うのでなければ、全く恥知らずもはなはだしい、ということになる。

         *                     *

 会の進行のなかで、もっともあざやかな印象は、戦前派・戦中派に対して、戦後派・戦無派の発言だった。そこには、はっきり「戦争経験伝承の断絶」があった。

 もちろん、若い参加者の殆どは、この会に出てくるほどのつまりある程度以上の意識をもった人たちであり、一部は何らかの活動家であった。彼らの発言をぼくなりにうけとめるとこういうことになる?

①☆ 私は生まれてなかったので、前の戦争のことはなにもしりません。(これは全員に共通した立場のようだった)

②☆ 戦争は、絶対に起してはならないものと思います。平和憲法を守り、民主国家としての日本を確立し、その平和を守らねばならないと思っています。

③☆ 戦争体験をききながら、その戦争を引きおこし拡大させた大人たちが、何故それなら、戦争をやめさせるため、起させぬために努力しなかったのか、ふしぎにおもいます。一体そのとき何をしていたか。その戦争責任をどう考えるのか、ききたいとおもいます。

④☆ 戦後、あたえられた民主主義の方向は、そのご大人たちの手によって、次第に圧殺され、繁栄の名のもとに、ふたたび軍国主義復活の途をあゆみ出している現在、大人たちへの不信は拭い去るべくもありません。

⑤☆ 改めて再び、なぜそんな戦争をおこしたのか。何故そうなるまでに反対しなかったのか。戦時中一体何をしていたのか、を問いかえしたいと思います……

         *                     *

 <戦争責任>を云われるとき、ぼくにはグウの音もでない。だがこのような考え方の若者たちの――まじめで誠実であればあるだけ――そのなかに大きな問題がある、とおもったので、ぼくはどうしてもしゃべらざるをえなかった。

 第一は、戦争のことは知らない。被害者意識だけの泣きごと、時には晩酌時に――ムカシはとてもこんなものはたべられなかった――という自己陶酔めいたくり言なんかもうけっこう。ということについてである。

 生まれてなかったから知らない、で、たとえば歴史を学ばないでいてよいのか。それはナマケ者のいいのがれである。戦争を二度とおこしてはならぬと考える以上、もっとも身近にいる大人たちを、反面教師として、徹底的に知りつくす姿勢がなくてはならないのではないか。

 第二は、戦争に反対するという以上、戦争の実態をよく知るという第一の問題に加えて、どのように反対するかが、個人として、また組織的に、具体的に考えられなければならない。反対する――というだけでは、殆ど前者すなわち大人たちのワダチをふむことになるだろう。

 誰かが「私は戦争はイヤだ。もし起ったら、私は絶対兵隊にとられない。山奥にでも逃げて、隠れている」といったが、もしその人がいますでに、山奥にかくれる場所をつくり、その間のたべるものを考え、親子親族と縁をきって一人ぼっちで、それをやりとげる準備をしているならともかく、<戦争がおこったなら>という表現にみられるような、明日のこと、明後日の先の先のことと考えているなら、ナンセンスなオトギバナシと云わねばならない。戦争がおこったときでは、もうすべてが終っている。山奥へ逃げるとしても、すぐ山狩りがはじまる。犯罪者、非国民として、警察はもとより、普通人からも追跡されるだろうし、家族全体にかかってくる非国民、国賊の指弾と白い眼は、とうてい耐えうるものではない。

 第三に、すでに世界第八位?の軍備を誇る自衛隊が表象するように、日本は軍国主義の道をあゆみだしているのではなく、戦争国家そのものにすでに日本はなっている。戦争がおこったら――ではなく、すでにあらゆるかたちで、戦争がたえずいまおこなわれている。戦闘は、戦争のごく一部分の現象にすぎないということを云うまでもなく、たとえば、ベトナム戦争において、もっとさかのぼれば朝鮮戦争において、日本はどのような役割をうけもったか――考えれば明らかなことだ。安保条約は軍事同盟であることは、いまさら云うまでもない。

 ぼくらは、ベトナム戦争に反対した。何どもデモをやった。にもかかわらず、政府の政策はかえることができなかった。何故だろうか。自分は戦争をしない。戦争はイヤダと云いながら、軍需品をはこぶ鉄道で働き、工場でベトナム向けの製品をつくり、商品として売買する職業に、平然として従事しているという大きな背理をおかしていたから――と云えないだろうか。ぼくらは、その手が血によごれていることを気付かず、いまもなお、戦争は、自分とまだ無縁のこと、すくなくとも明日、明後日のおそれとおもいこんでいるのではないか。

 では、一体どうすればよいのか。それは、いま尚戦前戦中派をとらえている「あのとき、どうしたらよかったのか」と共通する、現実の、いまのいまにつながる問題である。そのこたえは……ぼくには……ない。

 社会変革――革命、あるいは民主連合政権を樹立して――という明日の課題を是認したとしても、いますでにある戦争をどうするか、の具体的な一歩一歩の反戦反国家の行動なくして、どうしてそれが実現できよう。

 戦争をとめるのは、個人ひとりの力ではなく、もちろん組織的な、人民が大きく連合した力以外にない。だがその実現の日まで、個人がもし手をつかねたまま、状勢の波にひきこまれていて、それで仕方がない、というものだろうか。いま、私たちが全部で考えねばならぬことは、そこの一点である。そこから、(あまりにおそまきと云われようとも)出発する以外にない。

 ――自己弁解じみてとられるおそれに、しばしばぼくはどもりながら、実は、若い人たちへでなく、自分自身へ問いかけていたのだった。――

 

(ロ)W・R・I(戦争抵抗者インターのこと)

 べ平連が<イントレピッド号の四人の脱走米兵>について新聞発表をした約一・二ヶ月前、ぼくは長野の「三文評論」に<小さな宣言>という文章を投稿掲載したことがある。それはWRI日本部の会員として、WRI会員の自己に課した誓いを確認し、遵守するためのものだった。(今、手許にないので記憶でかく) 題は<小さな宣言>で約三・四枚のものだった。

 第一は、戦争にどのような形でも協力したり、支持しない。つまり従事しない。 現代の産業はあらゆる意味で軍事産業化し、あるいはことあればそれに転化するといえるが、直接間接、もし自分がいま従事している職業が戦争協力となり、その遂行にある種の役割を果していると、自覚したとき、あるいは他者から指摘があったとき、ただちに――明日の生活が閉ざされるとしても、その仕事をやめる――ということ。

 第二には、兵役や軍務拒否によって、迫害をうけ、あるいはそのために苦難におちいっている人に対してはその人と運命を共にする覚悟で、それを救けるということ。そのような人があれば知らせたり、送ってもらいたいということ。……などである。

       *                         *

 十数年前、日本アナキスト連盟員が、革命における暴力非暴力の問題から、山鹿さんほかごく一部をのこしてWRI会員であったのをやめたことがある。

 ぼくがWRI会員としてその時改めて加盟しなおした理由は、むしろその暴力非暴力の是非というよりもWRIに加盟することで、自分の行動に<歯止め>をすること、最低これだけのことはしない、ということで、再び戦争にずるずるひきこまれていく自分を、WRIの申合せにてらして、屡々鏡にうつすようにうつして見直す必要を感じていたから、といえる。

 WRIに年一ポンドの会費を払い、世界の反戦運動のニュースをたまにうけとることだけでは、現実にはぼくは、なんの影響もうけることはない。加盟していてもいなくても同じといってよい。だがぼく自身が、会員の資格は、「戦争にいかなる形でも従事しない。もしそうなったときは、自動的に――すなわち本部や他からの除名除籍でなく――自ら会員の資格を失い、もはや会員でなくなる」――ことにおいて、どうしてもWRI会員である必要が、いまもありつづけるのである。(畑さんなどの<兵役拒否の会>クラルテの今後の方向にふれたいが、ここではかけなかった――)

         *                      *

 この文章を<小さな宣言の確認として>と冒頭に題したのは、たまたま参加した八月十三日のシンポでのぼくの発言を、補足確認しつつ、これからの生き方の最後のトリデとして、せめてこれ位を守りつづけつつ反戦を考えたい、ということにほかならない。

 

後記(この号大急ぎ発行のため、手紙を別に入れるのを省略) 九月十一日

○ ほかにかくことが大分あるのだが余白がない。八月十八日十九日の京都への<反戦市民運動全国懇談会>のことなどもふれたかったのだが。

○ 最近よい本が出た。河出のアナキズムアンソロジー<神もなく主人もなく>上・下とエマ・ゴールドマンの自叙伝を中心にした<女性解放の悲劇>イデア出版(これはぼくも取扱う)後者はとくに感銘した。

○ 「自由連合の旅」当分延期。すみません。

○ 小詩集、月十冊位のワリで製造中デス。

○ もう旧聞だが、朝日ジャーナル八月十日号に二十枚ほど<ミクロネシア――真昼の暗黒>をかいた。

 

サルートン通信(153号)一九七三年十月四日

○ サルートンを訪ねる方へ――故小川正夫遺稿のまとめ、それから、山鹿泰治さん追悼の冊子のまとめ、アナ運動史年表の大正期分の勉強と進行。平岡誠、和田栄吉、河本乾次、安谷寛一、白井新平、江西一三諸氏の聞きとりテープのまとめ、その他引受けて未済の原稿かきなど、ちょっと山積した仕事があるので当分の間、できれば、金曜日に集中して、おいで下さい。その他の日(昼間は大体不在)、もし外灯に電気がついていないときは、部屋が明るくても、なるべくご遠慮下さると幸いです。用件は、郵便受けに紙片を入れて下さると、あとで拝承します。大へん勝手気ままなおねがいですが――よろしく。尚、正午――午後四時まで、勤め先06-541-5178へ電話をかけて、臨時・緊急宿泊などのときは、ご予告頂きたくおねがい申します。

 

九・一六 大杉栄追悼

  京都集会・その他のこと

 この集会に、ちょうど和田栄さんが下阪しておられたので、そのおともをして参加した。和田さんは「みんな熱心だナァ、東京ではみられない」と感想を洩らしておられたが、ぼくも同感だ。もうぼくなどことさら出るまくではない。若い人たちはそれ自身で苦しみ模索して自分の道をみつけ出している。名古屋からきたI君のアピールが、学生風の若干のきおいこみがあるものの、ぐっと柔軟な姿勢があって、ぼくには感銘的だった。そしてそのような傾向が、会場全般のフンイキとしてあることも、よろこびであり、共鳴するところだった。京都の諸君が大きな経済的負担と献身的な努力で、この集会をよびかけ創り出したことに感謝したい。

 九月二二日、この集会の総括と今後の問題を討議するという招請状がきたが、ぼくが石川さん宅ゆきで上京し、参加できなかった。 誤解されるおそれもあるが――それで十六日席上で考えうかんだことがらの二、三をいまここで思い出しながら列記して、すこしでもその出席者と連帯したいと思う。

 第一には、集会はすこぶる形式的であったようにおもう。もとよりその内実は形式を媒介として表現されるのだから、<形式的>があながちわるいのではない。いままでに何度かかいているように、今ぼくらが知識として、経験として所有している既成の集会形式――集会のやり方は、それが洗練されスムーズな運営であればあるほど、中央集権的、である。とすればいかに既成の集会形式をうちやぶり、新しいぼくらのやり方をつくり出すか、という視点がまず強く認識されねばならない。それがとてもむずかしく、その試みで集会がうまくいかないというおそれがあるにしても、である。

 第二に、集会で、しばしば、連合とか、共同行動、この集会を結集軸として、という言葉がきかれた。もちろん各人各派の多様性をみとめつつ、ということである。しかし<自由連合>ということばは、割合にすくなかったようにおもう。ぼくは<連合>と<自由連合>は五十歩百歩の大同小異、あるいは同義的なもの、ではない、むしろ質的な大きな差があるとおもう。その点、どう考えているのだろうか――と思った。ぼくの考えはサルートン一五一号裏面下段<運動を連合としてとらえること>一、二、三が要約しているのでここでは省略する。

 第三は、全国に散在するアナキスト個人およびグループの、全国連合を、この大杉追悼集会の共同行動を契機として、より積極的にすすめよう――という姿勢――方向についてである。それに誰も異論はないだろう。問題はそのすすめ方、やり方である。

 たとえばそれを強く推進しようとする者は、当然のこととして<連合>の必要を説く。論議として、今迄相互交流がなかったこと、断絶していたこと、が批判される。しかしその批判のニュアンスは、はなはだ微妙で、多分にそのような姿勢をとっていた他者、他のグループに向けられているようにもみえる。つまり自己と他者との相対性において成立するそれが、今迄オレの方は何どもよびかけていたのにオマエは返事しなかった――というもののようなのである。それがそうであったとしても、それでは今迄と何ら同じ関係の姿勢でしかない。それは自分をまずひらくこと――自己批判すくなくとも自己総括を忘れて――(或いはそのことを積極的に行うことがまずなくて――)、連合のよびかけは、単に自己を中心として諸勢力を結集しようとする企みと誤解されるであろう。

 とくに過去の二、三のことで内ゲバ的行動をしかけた人たちと、しかけられた人たちの間には、若干のしこりがのこっている。それらは坊主ザンゲ式あるいは単に論理でわり切って水に流せ――というのでなく、当事者の現在の時点における徹底した<自己批判>が必要だろう。それは当事者双方にとっても、第三者グループにとっても、全国連合を推進しようとするかぎり、さけて通ってはならぬ第一歩であろう。(そのためには討論集会などが、全国連合研究会?などの仲介によってひらかれることがのぞましい)

 ついでに付記すれば、ぼくは今このようなときだからこそ、第一に、関東と関西にいつ訪ねても誰かがいて泊まることもできるアジトの設置と、第二に<全国的な>政治文化新聞(月刊)発行の必要を痛感している。もしやろうという人があれば、ぼくは大いに力を入れるつもりだ。もしその人が求めるなら……

 

おしらせ!

○ <日本反政治詩集>が出ました。予想以上によいものができたとおもっています。ぜひよんでみて下さい。送共七〇〇円

○ 十一月二日(金)三日(祭)と石川文庫整理をやります。四日は多分沼津の山鹿文庫へいく予定。手伝って下さるとありがたいのです。くわしくはBERABONAの通信をみて下さい。

あさひ町から Ⅰ

A 八月十八日十九日と<全懇>に出た。べ平連ニュースにもう内容が出てるので、改めてかくことはない。十九日会が終ってから、ぼくはしばらく会場ロビーをうろうろした。そして何人かの人と「やあやあ」と話しをかわし、やっと会に参加した気になった。そのあと、和田春樹さん三船温子さんを強引にさそって(というのはその後の予定がはっきりきまっていないようだったので)、久しぶりにあった戸田るり子さん夫婦?子連れの小堀さん、戸駒くんそのほかと一しょに雨の中をあるいて一パイのみにいった。一しきりメートルをあげて、全懇参加の仕上げをした。もうひとつつけ加えれば三船さんはその足で一しょに大阪へきてサルートンを訪問(「案外きれい」とほめてもらった)新しい知己ができた。

 ぼくは集会を、例えば昼休みの食事中の雑談とか、手洗い所で出会って立話をするとか、とくに会議のあとフリーで、行き当たりばったり個人的に酒をのんだり、土地を案内したりされたりして親しくなることまでを含めてのものだと考えている。旧アナ連の全国大会は第一回をのぞいてほとんど全参加したのは、或いはいまではぼく一人位のものじゃないか。とおもうが、大会はむしろ議事録にのっていないような、夜の就寝時を徹しての意見の交換放談のなかに意味があったようにおもう。たった一度しかあっていない会津の新明さんとのつながりも、そのようななか――たしか話しかけて一しょに中食をたべにいった――から生まれた。

 和田さんの大学の先生らしくない――そしてそれだから一そう先生らしい――飄々として誠実な語り口など、酒の上でなければ味得できない――それを同席の若い人たちは受取っただろう。(三船さんはメガネをとると、トテモ美人なのを発見した)ことなど、お二人には迷惑だったかもしれないが、<全懇>参加の大きなおみやげだった。(残念なのは金沢の井沢さんらとあえず誘えなかったことだ)

 

B 琉球情歌と銘うって「嘉手納林昌」の公演があった。竹中労さんのつながりのつながりで、その前売券をうったりしたこともあって、ききにいった。梅田花月劇場である。林昌の哀調をおびたうたはよかった。(――意味がほとんどわからず、みな同じふしにきこえて、すこし退屈した点もある。)「戦友」や「姫ゆり部隊」?には感動した。ちょっとひっかかったのは琉球放送の上原とかいう人のタレントそこのけの司会である。聴衆の半分は沖縄の人だったので、彼はその人たちにむけて、しきりに方言を使った。そして言葉のはしはしに、さかんにヤマトンチューによる沖縄の破壊や収奪を皮肉って、大喝采をうけた。その内容のこまかいところになると、方言が出てぼくらにはチンプンカンプン、彼らがどっと湧くときこちらは全くとりのこされてしまうのである。――彼らとぼくはあえていまかいたが、そのように、上原司会は、会場の聴衆を二つに引裂いて、<うらがえしの差別>をそこで行っているようにおもえた。

 彼のそのやり方は、郷土ナショナリズムにあぐらをかき、それをくすぐりあおり立てることでウケをねらうという、もっとも安易なショーマン根性をむきだしにしているように思われた。八月十八日夜のことである。

 

C <詩と思想>を創刊号から贈ってもらっている。一ど編集部から、エッセイをかけと云ってきたが、とてもかけなくて断った。すると十月号に詩を、という依頼がきた。いまさら人さまに公開するようなものがかけるわけでなし、と思ったが、受贈の義理もあって四苦八苦<恋歌>というのを送った。さして取立ててどうという問題作ではないが、それから、詩心うつぼつ……という感である。たまには頼まれてむりするのも刺激になってよいものだ。 九月二十日すぎごろ発売される号にのっている筈。気がむいたら立読みでもして、批評を下さるとうれしい。尚、詩と思想の毎号の特集は、それ自体よみ出があって、よい雑誌だとおもう。おそらく大きい赤字を出しての刊行にちがいないが――

 

D 九月四、五日と、ひとつは新日本文学会の幹事会があって上京した。事務局で、二、三十分たってから、「えっ向井孝さん?」と話しかけてきた。ぼくも気付かなかったが長谷川竜生さんだった。十年いや十五年ぶりぐらいでの出会いである。その夜、石田郁夫、小沢信男さんらも交えて、東中野――高円寺とあるいて飲んだ。(長谷川さんのおごりである)

 「このごろ、荒地など鮎川ら五十代後半から六十代の詩人が、大きく表面に出ているが、そのあとのぼくらの代のものは、割合なまけてしまってるのじゃないか。ちょっとお互い同志刺激しあい、大いに提灯もちをしあって活動を起そう」と長谷川さんがアジルようにぼくにいった言葉が、いまもつよく印象にのこっている。(提灯もちという表現でなく、もっとピンとくる、ぼくにはとてもよい言葉のようにおもえたのだが、どうしたことか、その意味だけがのこって、言葉をわすれている。大分よっぱらってしまったせいだろう)

 

E 朝日ジャーナル八月十日号(ミクロネシアの真昼の暗黒がのっているもの)保存用のものを紛失した。どなたかおもちの方ゆずって下さいませんか。代わりにコスモス八月号(この号にぼくは<風景>という詩四篇をのせている)をお送りします。

 

F かねて予告していた<向井孝小詩集>、Y君の協力でガリ切り印刷が一二九冊分でき、戸駒君その他の協力で荒裁断と折りが五十冊分できたので、一ヶ月まえからぼつぼつ製本にかかっている。今迄に出来たのは十二冊。協力者とごく一部の出会った人に差上げてしまった。製本といっても約八センチ×四、五センチ×厚二センチという豆本まがいのもので、再裁断(カミソリかカッター使用)ボンド糊付け、表紙付けとやると、まあひまひまにやるとすれば月に十冊か二十冊できればよい方である。

 それで発送寄贈の順だが、さきの予告のとおり、とくにほしいという方には、プレゼント交換(つまりあなたのラブレターとか入手後感想を送るという予約とか、土地の民芸とか、畠でとれたニンニクとか……)が着いた順ということで、楽しませて頂きたいと思う。よろしく。

サルートン通信(154号)一九七三年十一月二一日

 ○ 十一月二、三日、石川文庫つくりをやります。同封Belabona通信のように。手伝って下さい。よろしく。

 ○ 四日山鹿さん宅へいくつもりでいたが、どうもその日、大阪で欠かせぬ用件があるとかで、一日の夕刻、沼津・三津へいって……と、いま思案中。(もし時間のある人は、沼津で一泊して話しあいながら一泊しませんか?)

 ともかく、石川、山鹿両文庫いずれにせよ、参加して下さる方は、ハガキで一報下さると、改めて連絡します。

 ○ 十月十八日正午、東京駅西中央口集合後、白飄庵(市原市)へ移動、<芝淳忌の催し>が白井新平さんの発起で行われるよし。くわしくは電話03・402・6668(港区六本木6・16・53)へ問合せを。

 

 名簿の作り方

 誰もが、名簿をもっている。だがここで云うのは、運動あるいは組織としての方向、またはそれに似たことでつくられるもの、についてである。

 たとえば自由連合(姫路版)をぼくが発行しだしたとき、たちまち問題となったのは、その送付先である。

 もとより最初から、その名簿などある筈はない。発行部数、千。(のち二千二百位)になった)。その送付先はまず、従来ぼく個人が出していたイオム通信読者、約三百。これを基礎名簿とし、旧アナ連機関紙自由連合読者名簿から補足追加。さらに大阪での講演会、集会参加者名簿(二回分)を加えて、約八百。三号までの三ヶ月間、無料でおくりつづけて、その間応答その他連絡のあるものをチェックした。

 自連には毎号、アンケート用紙を入れた。その末尾に、自連を送付してもよいだろうと思う友人知己の住所をかき入れて紹介してもらうことをやった。

 アンケートがきた人には、紙代払込みの有無に別なく、三号分は送りつづける。紹介された所(毎号五〇名平均あった)へは、××さん紹介で送付という挨拶状をつけて、同じく三号分つづけておくる。

 このようにして、第四号目からは、一部の寄贈先約五十をのぞいて、紙代払込み済の固定読者約二百五十の名をならべた、自連自身の名簿がようやく出来たのだった。

 アンケートやそれに代わる連絡のないもの、紙代払込みのないものは(予め寄贈と決定していないかぎり)三号送付をつづけたのちは、至極事務的に名簿からはずした。紙代切れも三号分未払いになれば同様にである。(もちろんその一方、新規に紹介をうけた先へは、宣伝広告用という意味で三号分は送るのである)

 こうして、自連名簿は、十号すぎるころには、毎号五十人以上読者、発送先がふえて、千を超すようになった。発行部数も千数百に増加し、ようやく名簿として実質的内容をもつものが完成したのである。

          *                  *

 新聞や雑誌を、ぼくらが発行するときの、第一の問題は、その配布・発送先である。つまり名簿である。もっといえば名簿の質である。この一番大切なことをしばしば忘れて、ぼくらは今迄から、自分だけの思い込みで――紙面つくり、発行にのみ眼をうばわれがちだった。

 数千部発行された旧アナ連の月刊紙が、十部~五十部とまとめて一括、地方の同志へ送られ(そこから先でその同志が適当な配布先名簿をもたぬため)半分以上は死んだり、行方不明になってしまう。それだから当然再生産のための紙代も、ほとんど戻ってこない――ということを、ぼくは何ども目撃してきた。

 だから<姫路自連>は当初から一括発送(配布委託)をできるだけさけた。十部引受けを云う人には、三部四部と限定して送った。紙代の予約を前提として。

 配布委託の場合、すでにこちらにある名簿の部分(発送先)を提示し、その名簿をより充実させていくという方向でその地区(あまりひろげることを求めなかった)分を移譲する方針であった。(これはあまり成功しなかったようだ) つまり、配布先のあいまいな――他人まかせの――名簿はつくらなかった。それは<名簿>は新聞の記事・内容・編集・発行と同様に、最も重要なものだという認識から出ている。

          *                  *

 完全な、よく整理された<名簿>は、その組織にとって、(運動や経営にとって)、不可欠のものであり、金銭にもかえがたい、大きな財産であり、何よりも<力>であり<宝物>である。敵に対する機密であると共に<武器>である。 だから、その名簿を他者がみせてくれと申入れをしてきて、こちらがそれを了承するとき、それはそのことだけで、<仲間><同志>である以上の連帯、信頼を表現していることでもある。

(自連の廃刊のとき、その問題を提示したぼくが最初に口にしたことは、名簿の処理について、であったことを、若干の関係者はおぼえているだろう。その名簿という形の遺産分けの意味もこめて、名簿の活用?について個々の申出で、あるいは限定的使用を考慮することにしたことも、名簿が、何よりも大切なものだったからだ)

          *                  *

 

 過日A君が、「こんど改めてニュースを出す。自分の名簿に加えて、新しい――当然送るべき人の洩れを補足したいから」と、彼自身の名簿をもってきた。

 そこにはぼくと共通する数十人の人名もあった。が驚いたことには、その半分ぐらいは、住所が変わったり、もう消えてしまった人達であった。つまりその名簿は、半分は死んでしまっている――というより送っても届かなかったり無意味な徒労――いらぬ出費ということでは、運動のむしろ障害となる、ような質を混在させている。

 彼はここ数年、出色の誠実な活動をしてきているにもかかわらず、その名簿は、全く運動(活動)に伴うものとなっていない。名簿に対する無自覚さが、彼自身の活動日常と無縁のもの、大げさに云えば活動の大半を無駄にしてしまっていることになっているのである――

          *                   *

 このことから云えば<名簿>は、その用途に応じて、必要の最低をみたすものとしてでなく

 1、 時々刻々にうごく、その人名と自己または組織との関係を、使用の現在点で、ただちに提示するものでなければならない。

 2、 つねに新しい人名を増補する方法と、その一方修正改訂および不要の部分を消去するための基準が立てられて、日々実行されていなければならない。

 3、 さらに「摘要」「備考」的記録がその都度記入されていることにより、関係の経過・履歴が一見して判るようになっておれば最良である。

 このことは実際は至極むずかしく、日常的には大へんなことでもある。しかしそれだからこそ、このことをやりぬくことが、また運動であり、組織つくりなのだ。

          *                   *

(補注)名簿つくりにあたって、その宛先の増大化については、誰もが考慮するが、とくに留意しなければならないのは、その名簿から、すでに関係がなくなっているものを消去するということであろう。

 その弁別判定の問題をも含めて、いかにそのような宛先を抹消していくか、はきわめて大切な視点である。それはもっぱら、一定の規範による事務的処理の確実な履行によってなされるものだとおもえる。そのことが、名簿を、機能的に、かつ運動組織の武器であることを保証せしめるものである。

 

   あさひ町から Ⅲ

○ 地下鉄「動物園前」の飛田本通方面出口の階段をあがろうとするとき、一しゅん、いつもたじたじとするほどつよく、吹きおろしてくる風に出逢う。そこから三、四段あがると、うそのように、風はなくなる。

 ぼくはもう一年ちかく、そこを毎日とおるのだが、それが――気分が昂揚しているときはとてもこころよく、反対に、息がつまるほど身にしみていよいよ自分がみじめにおもわれるときとがある。このごろのぼくは、ずーっと、その後者だ。

 もうひとつの出口――新世界方面への階段は、それほど風はふかない。

○ そこから出て、飛田本通りを五十メートル行くか行かぬに十字路がある。そのあたりいつも七、八人ポン引きの女たちや、あそび人風の男たちが立って、話したり、かたまったりしている。横丁の小路へ入るところにイスをおいてのんびり腰かけているのもある。ポン引きはエプロンをかけたりして、ちょっとおカミサン風が多い。 毎日とおるうち(口をきいたことはないが)何となしに顔なじみという感じで、彼女らが巧みに、その路上空間を、通行のじゃまをもせず、しかもわがもの顔に占拠しているうごきに感心しているのである。

 ある日、彼女や彼らが、その路のまん中に輪をえがいて、立っているので、のぞくと、交尾した二匹の犬が、互いに背をむけて、じっとしていた。

 とおりすぎる連中は、一様にへらへら笑うような表情で行くのに、彼女らは、その通行人にも気付かぬようにしいんと、口もきかず、ただじいっと、動きのない犬に見入っているのであった。

 その、何か小学生が理科の実験を、真剣に見入るような雰囲気が、まるで犬の交尾を守るように、まるく輪をつくっているのと、牡犬のあてもない空の一点をじっとみている、悲しげとしか云いようのない眼つきが、いまも忘れられない。

 

○ 前号サルートンに同封した<センター通信>が、こんど<リベーロ>と改題され、日本アナキズム研究センターニュースとして、出ることになった。多分サルートン読者へも、十月一日号は寄贈で送られる筈である。ついては直接、今後よんでやろうという方は、発行人羽熊君宛申込んでほしい。(一部三十円〒二十円) 毎月一日発行、部数千部。おいおい国内の運動のうごきなども記事にして全国の連絡情報紙の内容もかねて出したい意向である。

 

○ Bela Bonaつうしん4(同封)のように石川さん宅にあるパンフ・図書を販売する。めったに手に入り難いものばかり。特に近世土民哲学(美本)や「エルゼ・ルクリュー思想と生涯」は値打ちであり、あまりに安い値段だとおもう。 但しこれはサルートン、Bela Bonaつうしん読者にだけの、第一次〆切までの値段で、第二次からは値が変わると承知の上お申込を。(ぼく宛)

 

○ 十一月四日、前号及び今号題下に山鹿宅行きのことをかいたが、同日、岩田秀一君(下條かおるあるいはテッパチ君)の結婚ヒローがあるので、その出席のため取止め。一日午後山鹿宅へ行くことにした。(決定)

 二日は正午上北沢駅集合、石川文庫ゆきである。よろしく。

 

○ 十月二十日(土)午後一時三十分中之島剣先公園――集会・デモ<自衛隊解体。軍事基地撤去。四次防。安保粉砕。能勢ナイキ基地設置阻止。自衛隊員募集阻止。日帝のアジア再侵略阻止>……十月二十一日(日)午後一時、大阪駅東口広告塔前ビラまきが、<全大阪黒色叛軍闘争実行委>によって行われる。

 

○ サルートン 金曜雑談会。午後六時半ごろより九時十時ごろまで。毎月第二、第四ということでやろうと思います。(夕食をたべる人は、用意をしますから、その旨事務的におしらせ下さい。)酒もすこしはあります。会費五十円以上をカンパ箱へ。 今月は二六日デス。

 

○ <詩>

   風景 6  (コスモス用)

 

 誕生日

 十月四日

 だあれもいない ぼくの通夜を

 地下鉄の中で やりました

          向井 孝

 

 終電車が出ていったあと

 無人になった地下広場の

 遠くから、一人

 ゴミトリとホーキをもって

 掃きとりにくる――――

 

サルートン通信(155号) 一九七三年十一月三〇日

 ○ かねて懸案の、十年前亡くなった小川正夫評論集<性とアナキズム>の編集を、ようやく完了して、その原稿一切を渡し、あとは数ヶ月後の上梓をまつだけになった。なんと三年ごしである。

 追悼集の意味をかねているので、定価はつけないが、実費で一冊四、五百円はかかる。名古屋の――小川さんを追慕する旧アナ連愛知地協その他の人たちが中心となって、その刊行会をつくって出すわけだが、この十日、二十三日と二回打ち合わせにいって、ぼくは尚小川さんの遺志がその人たちのうちに脈々と伝えられているのを感じた。

 ○ 小川さんのものが手を放れたので、引続き、山鹿泰治三周忌の 評伝<山鹿泰治・人とその生涯>(付年譜と運動史略年表)を十二月中旬までに仕上げて、私家刊行すべく仕事をすすめている。前者は新書版二五〇~三百頁。後者は未定。    十二月三〇日

 

  <連合>について

 <言語連合>という概念が、比較言語学で用いられているという。

 『親縁関係が設定できない――文法形式のタイプでは似ているが、はっきりした親縁関係を証明できないような場合「言語連合」Sprachbundシュプラーヘブンドという概念が提出される。(弘文堂日本語の起源十八頁)

 つまり「もろもろの言語のあいだに同一起源によってでなく、接触による相互影響によって、共通の特徴が音韻の面とか形態論の面とか、シンタクスの面とかでみとめられるとき、それらの言語は言語連合を形成するという」例えば「バルカン言語連合」、また――日本語・朝鮮語・アイヌ語それぞれに親縁関係があることは、まだ証明されていない。にもかかわらず共通して流音LとRが区別して、意味の区分に用いられていないという共通の連合現象がある。』……など。(十一月三〇日)

          *                   *

――十一月下旬、ここまでかいて、このあとをどう展開するか一頓挫しているうちに、あっというまに時日がすぎてしまった。一方、山鹿泰治評伝は、ほとんど毎夜、明け方、夜の白むころまで精励して、そのうちもう何もかも放り出してそれ一本……十二月十六日迄が二十日すぎ迄、月末までが正月七日頃には必ずというかたちで、完稿を何度もまってもらいながら、大みそかも元旦もあるものどころか、おぞうにも放り出してかきつづけるという――ことになった。もちろんサルートンを年賀状代わりに出そう……と思っていたことも、そのままである。

 年末に原稿を印刷屋にわたすのと、年が明けて改めて出来上がった段階で印刷をたのむのとでは、びっくりする位、紙の事情や費用の違うこのごろ――と思えば、ともかく、一日でも早く評伝を仕上げねばと心あせった。

 一方、いま多少の枚数がふえても、やっておかねば、改めてまた追補する――ということができるかどうか。エエイままよと書くうちに、当初百五十枚(四百字詰)から二百枚位……いや二百五十枚、エエイ本にしたときの頁数など、なるようになれ!とばかりに、それでも一応省略しながら、次第に長くなって、遂に一月二十日午前三時脱稿、枚数をかぞえると何と三百八十九枚!

 年譜付運動史年表が約六十枚位だから、あわせて四百五十枚ほど――ということになってしまった。

 

 この四~五十日間、このような次第で、サルートン送ってこぬがどうしたかなどの問合せにも不義理、怠慢の仕放題。その代わり、四百五十枚ばかりのもの、山鹿さんについてのここ三、四年のかかわりの一段落をまとめました――というのが唯一の云い訳。ぼくへのなぐさめ。というわけナノデアリマス。 それにしてもお正月以来とくにシンドかったナァ。

 いまの気持は、何か急に世界がガクンとして、何もかもめんどくさく、世の中が灰色でノロノロうごいている感じ。もう何もやることが終って、片付けをして、「さあテ……」と、あてもないものを、じっと待っている感じ……その待ち時間の手もちぶさたのようなものに、ふとせきたてられて、「ああそうだサルートンを一筆、と、こうしてガリをきり出したワケナノデアル

 そして、ここまでかいてくると、こんどは又あとからあとからと、次の仕事が波のようにおしよせてくるのが見えだしてきた。

 「大変だ」「ともかくこれをあっさり仕上げて、一両日中に発送してしまわねば……」とまずは貧乏ひまなしのアワレな根性、われとわが身を追いたてて、おくればせの<年賀状

 

 昨年中はいろいろどうも

 ことしもかわりませず……

 あなたは お元気ですか

 

ことしのぼくの小さなねがいは

昨年約束して果さなかった名古屋――三石さん

三重の安田さんのところへアソビにいくこと。

できれば三月までに北海道と九州とに用件なし

で、ふらりと出かけること。

まえからやりつづけている<アナ運動史>の

ための先輩同志の<個人史>ききがきをまとめ

ることと石川文庫整理を多少でも形をつけること。

詩をかくこと。の外は総じてナマケたりアソンダリ

することをおぼえることデス

それから――もうひとつ――一しょに遊んだり

仕事を手伝ったりしてくれる――半同居人?を

みつけること?

 一九七四年 一月二十一日      (記)

 

W・R・I日本部とは……

○ ウォー・レジスター・インターナショナル=戦争抵抗者インター(略称WRI)は、一九二一年に創立され、現在、本部はロンドンにあり、世界四十八ヶ国にその組織をもって、他のあらゆる平和運動と連携して活動している国際組織です。

○ WRI及び日本部の主張とその見解は、次に要約されます。

1 どのような戦争をも支持しない。

 会員は、軍隊のどの部署にもつかない。兵器や戦争用資材を製造したり、取扱う職業につかない。国家の戦争遂行に直接・間接に役立ったり助けることの一切を拒否する。それゆえ、戦争や兵役から自由になろうと望む人を助け、その行為の達成に協力する。

 

2 非暴力主義を実践する。

 暴力は秩序を保証しない。それによる勝利は、人民の解放に役立たない。個人の自由を守らない。

 

3 WRIは、戦争原因の除去のために闘う。

 戦争は、互いに競争的な経済組織や、階級、人種、宗教、イデオロギー、差別、そして、とくに国家についてのあやまった一般的観念が原因となっている。

 たんに戦争を否定するのではなく、原因となっている根源と闘い、相互扶助の共同社会をつくり出すことによってのみ、戦争は消滅する。

 

4 インターの任務は、いろいろな方法で、戦争抵抗運動を助けることである。さまざまな国家に分断されている組織と運動に接触し、情報を送り、記録をうけとって集約し、その連帯に役立つことである。兵役忌避や戦争抵抗者の投獄・監禁・処刑・追放に救援の手をさしのべ自由を回復させることである。そのため書記局は、十四ヶ国語を使用してニュースを送り、会議、キャンペーン、直接行動の組織、非暴力訓練セミナーを、各国において実施する。

 

5 WRIの力は、自覚した個人が、独立して闘う、その個人の力のうちにある。

 もちろんそれは全世界にそれぞれ闘う個人と連帯し、インターとして連合されるものである。

 それゆえ加盟は、個人の良心と責任において、インターの宣言を認め、会費千円――または一ポンド――年額を、連絡通信費として負担するだけで、それ以上の責任も義務もない。

 但し、とくに 1、2項について、自己がそれに反する行為をとっていると認めたとき、自動的に、会員の資格を失うことになる。

 組織や団体が、多数決で、WRIに加盟することはできない。

 

ぼくの小さな宣言 

    この文章は、ぼくが出している個人通信紙<サルートン>一五二号(七三年九月十日)にのせたものの一部抄出である。ぼくとWRIとの関係、という意味で、再録させてもらう。 WRI日本部書記  向井 孝

 

『……戦争に反対、という以上、……どのように反対するかが、個人として、また組織的に、具体的に考えられねばならない。 反対!というだけでは、ほとんどかっての大人たちのワダチをふむことになるだろう。某君はこう云うた。「もし戦争がおこり、兵隊にとられるような事態になったら逃げる。山奥にでもかくれる。絶対戦争には協力しない」

 だが某君がいますでに、どこか山奥にかくれる場所をひそかにつくり、親子親族友人と縁を切って、ひとりでくらすことに耐えぬくため、自活の方法を考え、絶対それをやりとげる準備を着々とすすめているならばとにかく、「戦争がおこったら――」という表現にみられるように、それを明日、あさっての先の先のことと考えているのなら、その意志表明はナンセンスなおトギバナシと云わねばならない。

 戦争がおこったとき、もうすべては終っている。周囲は今のようではない。山へ逃げれば追跡され、山狩りが行われるだろう。犯罪者、非国民、売国奴、スパイあらゆる汚名が冠せられ、普通人からも指弾され追捕のために密告される。もちろん自分だけでなく、家族全体が、国賊の家としてののしられる。誰も――助けたくても助けられない――味方のない孤立無援のなかで、死よりも、兵役よりも苦しい状況の中へ投げこまれるのである』……

 『ぼくらは、たしかにベトナム戦争に反対であった。何度もデモをやった。兵器工場を攻撃したり、時には市街戦まがいの石をなげて機動隊とわたりあった。にもかかわらず、日本政府の政策をかえることすらできなかった。何故だろう。戦争はイヤダ。自分は戦争に協力しない、と云いながら、一方で軍需品をはこぶ国鉄で働き、ベトナム向け兵器をつくる工場で製品をつくり、或いはそれを取扱う商事会社の仕事に平然と従事するという背理をおかしていたから――と云えるのではないか。そして戦争はまだ自分とは無縁のこと、すくなくとも明日、ああってのことと思っていたのではないか……』

 『十数年前、ぼくはWRIの会員になったのは、前の戦争当時の自分にかえりみて、再びずるずる戦争に、いつのまにか引きずりこまれてしまう自分の生活――行動に、どうしても<歯止め>の必要を感じたからだった。WRIの宣言、そして個人の良心と責任に依拠した<申し合せ>は、個人が戦争に協力しないための自分の状況を照らしだす鏡として、ぼくには存在する。……』ウラへ

 

サルートン通信(156号)  一九七四年二月十日

○ 昨年十二月はじめから一月二五日まで、頂いた手紙やカンパなど、当然返事を出すべきものを、出したり出さなかったり、もちろん年賀状など欠礼のしっぱなしだった。ようやく当面の仕事もすんで、さてその整理を――と取りかかったが、あまり複湊していてどうにもならない。エエイままよと放り出して、日を重ねている。今後はきっちりとやります――ということで、どうか非礼の向きにはおゆるし下さい。(二月一日記)

○ サルートンも一五四号を十月二十日頃送ったあと、年をこして一五五号は三ヶ月ぶりというナマケの――それも裏は別のものを利用しての半分――だったので、当分精励して出すつもり。

 

いまから……すぐに

  Rapidu Malrapide !

 

――手紙代わりに――

 N君――手紙ありがとう。だい分くたびれているようですね。でもそれは、ぼくも同じことですよ。

 ところで、いま――何をすることができるか――何をしたらよいのか――やったとしてそれが何であるか――ということですが、残念ながら、ぼくはあなたに即したものとして、具体的なこたえを出すことができません。

 もっとも、いま君が視点をかえて、身のまわりをみまわすと、いろいろな人がいろいろに動いています。そのように、ともかく、やれること、やることは、いくつでも見出されるはずですが、いま君は、自分の外側の遠い巨きなものをみているので、それらは答えにはならぬだろうと思います。そしてその点から問題を解いてゆかねば、答えはどうどうめぐりするばかりのようです。……

 

<内と外>

 いまから約五年前、一九六九年十月発行のイオム通信八三号に、ぼくは<いま、このごろの意味>という小文をかいたことがあります。

 『――駅前通りを歩いていて、京都から帰っている学生A君に出逢った。 「いったいどうしたらよいのか、わからへん」という。十・二一から十一・十七にかけての佐藤訪米阻止闘争が与えた挫折と運動の沈滞感は、暗く重く、七〇年代闘争の展望を閉ざしたかにみえる……「これからどうしたらええか、わからなんだら、しばらくじっとしてたらええやないか。そのうち、じっとしておれんようにきっとなる」……中略

 どのような風も、強く、弱く、波うって吹く。闘いを、長い運動として覚悟し、そのように見るとき、高揚と停滞があることが判ってくる。いまの停滞は、ある意味で、次の必ずくる高揚のためにある小休止であり、歴史における波間である。だから、やがて再び力みちてもりあがるとき、自分はどうなっているか、どうするか、何がやれるか――そのことによって、いま、このごろの意味が、はじめてあきらかになる……』

 この小文の主張を、基本的にはいまも、ぼくは変える必要をみとめません。しかしこのときからはじまった運動の下降、停滞の深化とともに<しばらくじっとしていたらええ>ということで、いつしか消えていった沢山の人たちをあまりにも屡々みてきました。それらの人は<じっとしておれんようにならず>二十代半ばをすぎ、結婚したり、無関係のことに埋没してしまうことになりました。<やがて力みちて、もりあがるとき、自分はどうなっているか、どうするか>は、おそらくもうあまり脳裏からなくなっているのでしょうか? それをみていると、はじめ外部へのみむけられていた目が、いつしか状況に流されて、自分のことのみにかかずらいながら――つまりじっとしているのではなく――云いかえれば待機の姿勢がくずれて――そのことが自分の内部へとむける目ともならず、身辺日常の内側に閉じこめられてしまって、もう何もみえなくなってしまっている――ことを感じます。

 

<浜鉄の詩>

 ギロチン社事件の首謀で、大正十五年春死刑になったアナキスト中浜鉄のことを、君は知ってるでしょうか。彼は大阪北刑務所にいるとき――死の直前――自分の著作集と銘うって<黒パン>第一輯(二輯は死刑になって出ず)――祖国と自由獄月号という七八頁の冊誌を出しました。

 獄内という制限のなかで、死が近づくのをみつめながら、彼は黒パンの全頁をひとりで書きました。表紙の題字からカットの絵までつくり、レイアウトをし、活字の組み方まで考えて、その一冊を自分で何から何まで編集し刊行したのです。予告でない予告という頁には、次号掲載の目次までのっています。

 (この黒パンはすぐ発禁になり、長い間ただ噂にきく幻の本でしたが、先年一冊が発見され、復刻版が出たので、いまは容易に手に入れることができます。同じく同年発行の<祖国と自由――大杉栄追悼号>復刻版と組で、八百円(送共)でぼくが取扱っています)

 その<黒パン>のなかに、古田大次郎のことにふれた詩<いざ往かん焉>――大さんに贈る――があります。

 

  ……略……

  同志よ!

  これ以上の信があるなら見せてくれ!

  これ以上の愛があるなら聞かせてくれ!

  俺達は「信」の兄弟だった!

  俺達は「真」の愛人同志だった

  同志よ!

  親愛の深い聡明な

  而も沈毅な勇敢な

  同志以上の同志を有つといふことは、×××(革命家)のハシクレ

   の俺にとって

  これ以上恵まれた特権が有ったらうか?!

 

  両人が一緒に居る時は

  何時でも頭から家を捨てて居た!

  無論! 無国境だ!

  畏らく両人の生命も

  俺達の間には他人であった!

 

   大杉が俺に云ったことがあったっけ――

    たった一人!

    唯の一人でいいから――

    真底から理解しあった同志をえたら

    其時こそ味のある運動を始めるこつだ!

    屹度 現れが見れるだろう

 

   応!

   クロポトキンの同志ステプニアクが云ったやう――

   ×××は皆其の生涯の間に於て夫れ自身大した

   事でもない、何等かの事情で××の為に進んで

   一身を献げるという誓を立てた尊い一瞬を持っ

   ているものだ!

……以下略 (尻切れぼんぼですみません)――本稿次号へつづく――

 

予告――石川文庫整理の会

とき 三月二日(土) 午後一時(京王線上北沢エキ集合)→(石川宅)

     三日(日) 午前十一時~夜八時すぎまで(石川宅)

 単純な軽作業。ちょっと手伝ってみよかナ……位の気持できて下さい。気軽るく。雑談も、一しょにめしをたべるのも、この会の大切な仕事のうちに入ります。できれば準備の都合上、ハガキで申込みをして下さい。はじめての方には地図を送ります。

 

 向井孝小詩集 について ――詩集の文字の大きさは大体この程度ナリ――

刷りおわって半年ちかくなろつとするのに、やっと四〇冊つくっただけ。出来るはしから渡して……これをつくるのに手伝ってくれた人四、五人へ。それからプレゼントと交換など云ったので、早速何かを送られた人約二〇人へ追われながら。せがまれたり、何となく渡した人、五・六人それと詩集などもらったりしているうちにごく一部仲間へ思いつくたびに――ということで、あちこち、送らねばならぬところへも不義理をしている。限定百二十九部ということで、それだけは刷ったが、それから大変。一枚を七回裁断してそれが八枚だから五六回。さらにそれの折りが約六〇回。頁数をあわせ、そろえたうえで三方の化粧断ちをカッターで(もうこれが大へんなので、一方だけに今はしている)つぎはボンドで背をかためて製本。表紙つけ。表紙と背の題字を別のアート紙にかいて、その小さな紙片を表紙に貼って出来上がり――というわけ。もっとも一回に五冊か七・八冊かためてつくるのだが、なかなかめんどうな仕事で、そればかりやってると、気がオカシクなってくる。それであまり人にもたのめない。しかし、たびたび宣伝だけして不義理もできないので、すこしガンバってつくるつもり。そこでお願い。今迄に申込んでまだ受取ってない方は、もう一度ハガキでその旨再申込み下さい。早いもの順先着二五名まで、ということで、ここ一、二ヶ月のうちに送ります。尚二月十七日午後二時から岩田秀一君や寺島珠雄さんが発起人で、<小詩集>とぼくをダシにして一パイのむ会をやらかすという。会場は百番といって、旧飛田遊郭の一番高いミセだったところ――会費二千円――それに来た人には詩集をわたさねば相済まぬわけだから、逆にいうと、それに来て下されば必ず詩集は渡るということになる。会場の「百番」は、昔の遊郭の妓楼の面影をのこしていて、それだけの見物でも珍しいところ。(ぼくの泉原文化は「百番」から数分のところ、帰りにどうぞ)ぼくとしても未知の方に、こんな機会でであえたら大へんうれしい。尚サルートン読者でくるという人にきてもらうべく、告知してもよいかと世話人にきいたら大歓迎のよし。但し、予約する関係で必ず(大阪市西成区萩之茶屋一の三の二三市営萩之茶屋住宅?八号岩田秀一君(電話06・633・3819)へハガキで申込んでおいて下さいとのこと。(会場地図を送ってくれるでしょう)

 

○ 詩誌<コスモス>第四次七号がでた。高島洋の詩<風景>が久しぶりになかなかよい。ぼくも短詩二編をのせた。定価――割引一五〇円

○ 詩誌<鯤>(コンとよむ)第五号が出た。読売新聞一月三〇日夕刊五面に批評がでてるので紹介する。ほめてもらうのは、くすぐったいがうれしいものだ。

《鯤 五号》――大阪市西成区山王一の五の二二、竹島方――久しぶりの向井孝の「結婚式」がいい。……石に埋めこまれた人影が……華北戦線から未帰還の若者をまっていた少女……という設定が、地下街の「楽器店のウエディングマーチに乗ってひとすじに、こちらへわたってくるのは、たしかに! あなた……」という終行に盛り上がってすばらしい。京陽出美が「やけに若さを主張する口、それだけ老いてるんじゃない? いや、これは確定的」とわかりやすい口調になったのはいいことだ。清水正一が「左岸」に相変わらずヒネリをきかせている。三好弘光の連載はスターリン主義について米ソの日本の処理の仕方に及んで読ませる(秀)

 

《イオム 三号》が出た。西欧アナキスト見聞五十五日は、海外とくにヨーロッパのアナキズム運動のうごきを俯瞰的にとらえて、貴重な知識である。ぼくは、大正末期から昭和初年に全国自協の中心にあった江西一三さんからの聞き書き<江西一三とその時代>(これはあと三、四回つづく)三十枚かいている。

 尚四号は、このサルートンと前後して発行される筈。定価二〇〇円。申込みは、ぼく宛でよい。買ってくださることをのぞむ。一号二号もある。

 

  あさひまちから    孝

 

◎ 小川正夫評論集<性とアナキズム>がでた。

 丁度岩田君がきて、すぐ買ってよみ出した。どうやときいたら、大へんおもしろい、となかなか眼を放さない。寺島さんがきて「ほう」と手にとって、装幀をほめ、「もっとうすっぺらい、パンフ位かと思ったが、これやったら本屋で売れる……」と云ってくれた。

 新書版二八〇頁(内容は四章に分かれ Ⅰ性とアナキズム Ⅱアナキズム運動のために Ⅲアナキズムの立場と視点 Ⅳ反訳(一編)と略年譜 二十五編。あとがきはぼくとすみぜんいちさんとでかいている。領価六〇〇円(高くて申しわけないがこれでも結果として二~三〇万の赤字となる見込み)発行千部。ぼくの手で二百部ぐらい売りたい。手渡しの場合一冊五〇〇円。二冊なら九〇〇円。小包送付一冊六〇〇円(但し切手にノリをぬるからその切手代分は還元することとして送料無料)二冊で千円。三冊以上は一冊四五〇円の割。どうか買って下さい。友人に売りつけたり、近所の本屋において下さい。よろしく。

 

○ 最近、Bさん(中級の商事会社社員の奥さんになって子どももある)からこんな話をきいた。旦那のつとめてる会社が何でもものすごいモウケで、一時金に五十万円(税金なしの内緒金らしい)それに社宅のどこか悪いところはないか、とカベ塗りや屋根直しなどの大修理をタノミもせぬのにやってくれるなど、大サービス。つまりは利益のかくし場に困ってる――という、まるでユメみたいなはなしで「これも会社がくれたお正月用のお酒の残り」と特級一本をカンパにおいていった。

 ところでカマはヒドイものであるらしい。例年今頃は求人がすくなくなるのだが、このごろは「ほんまにひどいもんでっせ」「これだけアブレたらどうしようもない」「まあ今日はエエワ、いうてられん。毎朝はよおきていかんと、ほんまにくいっぱぐれてしまう」というような様子である。といってべつに町の景色はいつもと変わりないが、何だかそのあたりまえさが、ぼくには、ふと台風まえのしずけさ?のような気がする。 一月三一日記

 

○ 前号に今年のぼくの小さなネガイは、ナマケたりアソンダリすることと書いた。がなかなかキッカケがなくもう二月中は殆どつまってしまった。この調子では三月以降が思いやられる――という甚だ虫のよい?機会つくりを考えた。即ち左がその広告的おねがいである。

 出張 ㊙講座 応需!

○但し受講者は、一回数人以下であること。一人から三人までがいちばんよし。

○受講時間は、一日、六時間だけ(それで完講)

○受講料 無料。但し、宿泊(ゴロ寝可)(助手?一名連行の場合あり)場所提供のこと。旅費・雑費原則として当方負担するもカンパ(一日千円以上は不可)は拒まず。

○いかなる遠隔地(但し日本国内)も差支えなし。日時等は当方と打合わせのこと。(とくに東北・北海道・九州・当方希望)

 

 講義は、例えば、Ⅰ趣味(注1)の切手と切符活用学。 Ⅱ趣味のガリ切り入門。あるいはⅢ抑圧(注2)と自由(注2)相談室――等々、その理論・技術・実益各論に亘る。

(付記)Ⅰの受講を完全に卒業したものには<免許皆伝>証を与え、LF経済研究所員として、年収五千円以上十五万円を絶対に保証する。又Ⅱの受講後は、いかなる悪筆家も十人並以上となることに責任をもつ。(注1=革命)(注2=性)

 

サルートン一五七号 一九七四年二月十七日

 ○ 一月二三日午後上京して、二十四日雑誌会館の<大逆事件の真相を明らかにする会>主催の集会に出た。若い人たちはぼくの知った数人だけで、そのことの意味するものは何だろうか――といまも心にひっかかっている。二三、二四日夜は大島さんの常陽コーポに泊まった。これからもせいぜい利用してくれということばに甘えて、今後地の利もよい笹塚のそこを利用することになるだろう。三月二日、三日の上京にもそこで泊まるつもり。電話は〇三-三二二-八七一七、連絡のある方はそのときに――  二月五日  孝

 

 小川正夫評論集より (広告代りに)

○ ……同じ若者たちの運動でも、全学連反スタ主義者を支えている、たとえば黒田理論の心的構造と、ビート達のそれとは、感情類型学的に大きなずれがあるが、ことに特長的な点は、後者がすでに前近代的な臣下主義的精神から完全に離脱しているのに、前者は無意識的にガツガツとしがみついてることである。黒田理論にとっては<分派の統一>という名辞は、とても魅惑的なご馳走らしいが、これほどビートや釜ヶ崎的庶民の心性にとって無意味なものはない。ことにこの後者は幸いにも一かけらの意識もくわえこんでいないので、<行い>への無限の可能性を孕んでおり、スラムの中のあらゆる汚辱と悪業の媒介によって、思いもよらない社会共同体へのデモニッシュな<願望>で、無意識に鼓舞されている始末である。(これなくして社会主義も糞もあったものではないのだ!) ―P30<性とアナキズム八章>

 

○ ……彼の誤りは、自然を内在的に観ず超絶的に観ている点にある。従って彼は自然の声を神の声とのみ感じたが、自然の律動に不感症であったことは当然である。

 ひるがえって、自然を内在的なものと観じ、そのリズムに感応している人――これをロマンチックと考えるのは事大主義的実践主義者の寝言である。科学が意志として花咲く時期は目睫にせまっているが、その時この思想こそ科学であることが自明となるであろう――にとっては、同性交合と異性交合の別なく、凡ての交合は性器を媒介として、全身全霊を以ってする音楽行為だといっても過言ではない。故にその過程は種々なるテクニックをもって演ぜられてしかるべきである。従って若いトルストイの化身が、コウカシアの原野の娘の奔放な情欲に驚嘆して、モスクワ仕込みのテクニックを恥ずる場面も、要するにあまりにも律動的なそのフォルテシモに唖然としたのみであって、モウパッサンの<性欲を巧微にすることは、神をあざけって美に捧げる唯一の賛歌だ>――という意味の言葉を否定したことにならない。彼はアナトール・フランスの言の如く、死ぬまでギリシャ人だったのである。――P57<男色・姦通・自淫>――

 

○ ……すでにアメリカ自体が生産力発展の最も重要な基礎である自然資源の枯渇(石油・非鉄金属類・ウランなど)をば、未開発資源国の奴隷労働力の搾取に依存しているのであるから、ソ連が、アメリカに追いつき追いこす過程の中で、その豊富といわれている自然資源も枯渇になやむ時期が来ないとは、誰も云うことは出来なかろう。たとえばアメリカに二十年遅れているという、最近盛んになってきた合成石油化学工業が、ソ連民衆の要望もだしがたく強化されはじめるとすれば、すでに深部採油をよぎなくされているソ連の油田の命脈にどのような影響を与えるだろうか。

 かくてアナキスト達は、マルクスの生産力発展概念の永久性を否定する。大体、生産力の増大とか減少とか云うこと自体がごまかしである。それは特権階級やそれに奉仕する経済学者と称する幇間どもが、自己の位置や権力や、その学問の永続性を保持するために人間をマッスとしてつかみ、主体である個々の民衆の生活の真に完全な安定を、経済学という嘘ッパチな手品を口実として永遠の未来にゆだねる以外のものではない。我々は、ボタ餅に手をのばすとそれに応じてボタ餅が永遠の未来へ遠ざかる夢をよくみるものだがこれこそが生産力発展概念の真の意味だ。

 我々は、生産力はすでに世界の民衆を養う充分な豊富さを持っていると断定している。現在、豊富の中の貧困があらわれるのは、分配の矛盾にあると断定するのである。――P120<どんな社会革命をめざすのか>

 

○ ……社会主義者共は、原爆反対運動の主導権をかすめとるための猿芝居にうつつを抜かしている。アナキスト達は議論しながら、ただボタン穴の処女性を誇っている。その間に、かの一匹狼たちは、カッパライ、誘拐、強盗、そして殺人にさえその体をはってぶつかっている。四・五年前、太宰の墓前で自殺したスポーツマン上がりの作家があった。彼は自分を最も汚い、最もだらしない、最も乱暴な、そして最も下劣な人間の最低部まで落下さすことにおいて、イワン・カラマゾフのように人間の無罪を明らかにせんとした。わがエマ・ゴールドマンはビッツバーグの大争議の時、Aベルクマンに頼まれたピストルを買う金に困って、自ら淫売婦になり下がった。ヨハン・モストに会った当時のアナキズムさえ棄てた。そして真のアナキストになった!――P153<アナキスト無頼漢ラプソディ>――

 

○ ……われわれは小数であることを壱もなげく必要なく、わが無政府主義が騒壇の品題に登らぬことを悲しむ必要はない。……ビィオ・バロウバは云っている。無政府主義は将来種々なる転身をなして現れる、と。われわれは化身変貌におどろく必要はない。その正体をみきわめることである。――P204<実存主義哲学の傾向>

 

<前号一面よりつづき>「いまから……すぐに……」

『唯の一人でいいから……』

引用した詩の中の大杉が中浜に云ったという

「たった一人! 唯の一人でいいから――真底から理解しあった同志をえたら、其時……」という言葉は、いまのぼくの心に沁みとおります。

考えてみれば「莫逆の友」とか「心友」とか「刎碽の交り」とか云いますが、ぼくらはその生涯で幾百幾千の人たちと出会うのですが、その数の大きさにくらべて、いったい、たった一人!とよべるような相手を、果してどれだけ持ちえることでしょうか。

 そして、ぼくらの日常は、むしろたった一人!ではなく、しかもばくぜんとそれを求めて、衆合離散をくりかえしていることに気付きます。それにひきかえ中浜の詩は、そのたった一人をはっきりと意識して自分のうちにもっていることでの<つよさ><力>をみなぎらせているように思われます。

 それが、古田が死んで一人ぼっちになったあとも、また死刑執行を待つ身になってもなお、獄中で<黒パン>を出さずばやまない、彼の生命力、運動のバイタリティーとなっているのではないでしょうか。

 

 とりたてて根拠があるわけではありませんが、六九年以降大きく沈んだ波も、ようやくその最下辺から、しだいに大きく力をまして、再びここ数年のうちにもりあがる気配を、いまぼくは感じています。

 その気配のなかで、いまぼくらが、出来るだけ身をかがめながら、一躍して伸びあがる姿勢をととのえるのが、いまこのごろでしょう。そして、その<姿勢をととのえる>ということは、ぼくの考えでは、<たった一人!>の相手がその人にいるか、いないか、と大きくかかわってくることのように思うのです。

 N君、きみには<たった一人>とよぶ人がいますか? 誰でもない、ただその人以外の何者でもない――とはっきり云える人が――

<たった一人>

 しかし現実の問題として、中浜と古田のような全人的な結合の関係は、容易には存在せず、稀有なことというべきでしょう。そのようなものを目ざして、ある一時期、ある種の状況のなかでの<ただ一人>を、自らつくりだすことから、それははじめられねばなりますまい。つまり、きわめて意識的に、自分を相手に差出すことによって、相手の<ただ一人>に獲得されること。偶然の出会いから、その偶然を必然化へとすすめる<姿勢>――自分のあり方、対応――が、いま切実に考えられねばならぬと思います。

 もっと具体的に云うならば、きみは、ぼくぜんとこころの中で願うだけでなしに、<たった一人>の人を積極的に求め、つくり出さねばならない。日々の生活がその<たった一人>の存在がなくては空虚となり、毎日でも出会わずにはおれないような、それとしての相手を、しっかりと自分のうちに存在せしめねばならない。(それは実は相手を自分の方へ引きよせるのでなく、自分の方が相手の中へはいっていくこと――或いは献身によって相手に部分的ときには総体的に獲得されること――の相互関係です。

 もちろん、それは異性であっても差支えない。ただその関係の媒介が<性>だけでなく、必ず<もうひとつの何か>という二つ以上の媒介によるのでなければ、その<たった一人>は、必ず幻想に終るでしょう。

 くりかえすなら、自分が<たった一人>を求めながら実は、相手にとって自分が<たった一人>でありえているかが忘れられているとき、きみは求めるものをさがしあてることができないし、<そのうち>にやがて必ずやってくる高揚のとき、ほとんどもう立上がる力を失い、また立上がるすべも見失って、消え去る以外にないと思います。……よみかえしてみて、中間で説明が脱落し、不充分な返事になってしまいました。足らぬ点を判読して、「いまは、友達をつくる」ということに力をそそぐことダナ、という風にうけとって下さい。一年かんに、たとえ一人でも、よい友人ができれば、それは革命にも匹敵する仕事なのですよ。                         二月五日――

 

あさひまちから

 ○ 変更――石川文庫整理の会 通知

前号の予告で三月二日三日にやるとかきましたが、石川さんの留守宅の都合で次の通りにしました。

 三月九日(土)午後一時・京王線上北沢エキ待合せ→石川宅

   十日(日)午前十一時~午後八時まで 石川宅

どなたでも手伝って下さい。はじめての方には地図をお送りします。ハガキでおしらせを。

 

 ○ 一月二六日五時半~九時・森ノ宮労働会館で、近代史講演会 ◕寺島珠雄氏が<詩に現れた無政府共産党事件の断片を通じて>約四〇分、<幸徳事件被告の周辺――大阪神戸組を中心として>をぼくが二時間あまり。せいぜい三〇人位までと思ったが六、七〇人の人たちだった。

 ぼくはもう四年前から二〇人以上の、とくに講演などというものは一切やらぬということをきめていたのだが、昨年一月上京の時、大阪ででも大逆事件真相を明らかにする活動――とくに大阪組被告の墓碑やその顕彰についてうごくことを引受けてきたこともあり、特別のこととして自分で講師?を申出て、久保君などに集会世話をたのんだという次第だった。当日は東京から帰ったばかりで疲労甚だしく甚だおざなりなことをしゃべってしまったことを聴衆の諸氏におわびする。来年もこれだけはやりたい。

 

○ ぼくは朝夕、つとめの往復、サルートンから動物園前エキまで、飛田本通りをとおるのだが、必ず一人二人、ひとりごとを云って歩く人たちに出会う。いかにも会話しているようだったり、ぶつぶつ云うのや、何かどなりつけるふうや、さまざまだが、決して気がフレているのではない。たいがい酒をのんでるが、つまりふだん誰もしゃべる相手がいない孤独な生活の彼らが、そのようにしておもいのはけ場をつくっているのである。そう云えばカマガサキの町には、小鳥屋、犬屋、金魚、草花屋などが多い。そして二時間も三時間もウインドの動物を覗いている人がいる。飼っている人も多い。それもまた彼らのひとりごとの代わりとなるものであるらしい。

 

  • サルートン一五八号 一九七四年二月二八日

 ○ 三月九日・十日、石川文庫セイリの会。

応援にたくさんきて下さい。ハガキで申込んで下されば、地図等お送りします。

 当日、石川さんのパンフ、本等、旧版のものを特別領布します。

 ○ 三月三日 小川正夫評論集刊行の集い。

午後一時三〇分~名古屋YMCA(電話・九六一-七七〇二)階上会議室 会費三百円

 ○ 小川正夫評論集<性とアナキズム>取扱い中 一部送共六〇〇円。申込みをぜひ。

 

“コスモス”雑記  二月十六日記

詩誌コスモスには、創刊以来<コスモス雑記>というランがある。はじめそこへかくつもりだったが、あまり<私事めいたもの>なので、サルートンで書きとばすことにした。そしてついでに、二月十七日の会に配って、ぼくがしゃべることの代わりに、との一石二鳥の作戦――。(コスモス八号〆切は二月十五日、一日おくれの十六日、詩一篇と<前号作品評>の小文を送った。〆切を殆ど守ったことは、このところ僕にとっては、メズラシイことなのである。リターンマッチ宣言の効果、よってくだんの如し)

 

     1

 こんど詩集(といっても百二二頁、十四編、手製、ガリ版り五cm×八、五cm×一、七cmマッチ箱ほどの豆本で、詩集と銘うつほどのものではない)をつくってみて、いろいろ思いあたることがあった。

 第一は、六〇年安保前後の三年間弱と、それに符節をあわせたように、七〇年安保前後の三年間、計五年余は詩から遠ざかり、作品が空白だということ。

 第二は、安保などの高揚期がすぎ、運動の沈滞低迷につれて、詩を思い出すようになり、(といっても年一、二篇だが)また作品をかきだしていること。

 第三に、このごろ、又かこうという気になっているのは、(二)のような状況と関係しているらしいこと。

     2

 云いかえると、ここ十数年、ぼくと詩との関係は、もっぱら対外部的なハリキリ?の時期にあるのではなく、多分に外部の沈滞状況に影響されて、ぼく自身の活動がなくなってきたときにあらわれてくる。自分に即して云えば、なんとなく疲れて体も心も弱り滅入ったようなとき、詩でも(でもに点)つくろうかなぁーやっぱし……ということになるらしい。

 そのことのみで云うかぎり、だからぼくの詩は、実のところ、ひよわなもの、うそうそとめめしく内へと入りこんだ自分の精神のあり方、その部分と、深く関係していることになる。

     3

 ところが――である。現実にいざ、詩を、ということになると、そのうそうそとして女々しいものは、なかなか姿をあらわさない。そして懸命にそこへ近づこうとすればするほど、――つまり<本音>は必死になってかくれてしまう。そのあげく、でき上がった詩は、全く<つくったもの>で、ぼく自身の魂のぬけがら――といおうか、せいぜいよくて<精巧な人形>で、人を〓つものが欠けているのである。そのことは――つまりうそをかき、たくみにつくる(つくるに点)だけ――ということは当の本人自身何よりもよく知ってきたことである。多少の弁解でいえば、本音をかかねば!というおもいと、ウソをつくりだすこととの<葛藤>の中で、ぼくの詩がつくられてきた――といってよい。そして作品で、いつも<本音>の方が負けて、影をひそめているのは<本音><本音>と百万辺となえてもどうにもならず、実はそれを表出する<方法>を、いと口でも持たなかった――見つけられなかった――ということでもある。

     4

 永いあいだ、ぼくは<本音><本音>と唱えながら、自分の詩がつくりものであること、ウソをかいていること、自分を裸にし恥部をみせることからのがれていること、いつもよそ行きのヨイ子のような風情をしていること、に<コンプレックス>を感じてきた。一体なんのためにかいているのか――と問われると、もうヤメマスと云う以外、答えようがなかった。

 つまり、ぼくが詩をかきたいナ、とおもいだすときの心の状態は、見栄・外聞・その他の対外的な問題にくたびれ果てて、ああ、つかれたナァーと、丁度女性のむねの中に顔をよせて、弱味も甘えもさらけ出してしまうようなとき――であるのに、詩をつくりだすと、又々、男が女の胸に慰うのは何の故か、と一とりくつこねるようなことになっていた――のである。

     5

 ところで<鯤>の五号の雑記に、『力を入れて<詩>をかくこと。コスモスや鯤の同人として一生懸命にやる』という<リターン・マッチ宣言>を出した。もちろんその宣言は自分に向ってのこと以外のものではない。

 それは、第一に、対外的に公示することによって、自分をのがれられない場に追いこむこと。第二に、何となく状況的に、詩をかこうかナ――という流され方を拒否して、あべこべにその状況を自分の手でとらえ直す、意識化する、ということのためである。

 しかし、詩をかくということでは、まだ、かんじんの問題――本音――がのこっている。それをどうするのか――。

 『これからはつとめて、本音を出します』と公示してすませることではない。…………

     6

 いま、ぼくのそれに対処する方法は、

 『しょうがない、といなおる以外に手はない』ということである。

 つまり、いままで<本音><本音>で抱きつづけてきた<コンプレックス>に対して、よく考えてみれば二重三重五重の皮をかぶって、はがしていったら、どこにあるのが<本音>やら、すこぶるあいまいで、うっかりすれば<本音>のみせかけを、これこそ<本音>と自分で錯覚幻想しかねない――それを、キレイサッパリと投げ出してしまうところから、詩をつくろうというのである。

 いっそ徹底的にウソとまことをつきまぜて、自分の本音なんかのことはもう関係なし、<つくりにつくってみよう>それがぼくの<詩>だ――とひらき直ろうというのである。

 そんな詩をかくのが、ぼくの本音だ!と云うことが云えるか云えないか――ともかく、案外こんなところから<本音>を詩として方法化するいと口がしらぬ(しらぬに点)まに出てくるかもしれない。

 と――まあ、こういうことで、今年は、五、六編の作品をかいてみたい。機会があれば、どこにでも? 発表して、

 やっぱしアカン。モノタランナァーなどの批評をものともせず、多くの人から意見をききたいと思うのである。リターンマッチはこれからだ!

 

<附録>

 小詩集・作製の記録

① 芳村君がサルートンの部屋で、ぼくの書いたものの目録をひろい出してくれたのがはじまり。

② 古い詩をよみかえしてみて、ぼくにはそれぞれその時々の記憶があってなつかしかった。自分自身の記念となぐさめのために――そして散逸して忘れてしまうこともあるので、保存してあるイオムに発表のものをのぞいた作品を、巧拙にかかわらずみんなのせた小詩集をつくろうと思いたった。もちろん手製ガリで。(お金をこんなものに使うのはもったいない)

③ さて――とやりはじめたが、扉、目次とかくうちに急に、それほどのものでもないのに、自分のなぐさめにしては、すこしシンドイ思いがしてきた。放りっ放しで一・二ヶ月すぎた。

➂ 吉村君がまたサルートンへ手伝いにきてくれた。そして末尾のすこしの部分をのぞいて、原紙で約七枚強(ぼくがかいたのは一枚弱)計八枚のガリ切りが完成した。

④ 発行部数を一二九部ときめ、それをぼくは会社へもっていって、輪転謄写機ですった。原紙八枚、計千枚ほどの用紙。これをするのに八回原紙をはりかえ、約半日、ひとりで一気にやった。

⑤ 刷り上ったもののうち、五十組だけ裁断した。これも事務所の押切り機をつかって、まず真中から、二分する。裁断は大へんであった。五、六枚を一回一しょにきって、二分の一にするだけで、寸法をうまくあわせて、八十回ちかく押切機の刃を上下しなければならない。次でそれを各頁毎に切りはなすのだが、これがまた大へん。とうとう五〇部を二〇部だけまずつくることにかえたが、それでも押切機を三九〇回うごかすことになる。そして切り放した頁を、入りまじらぬように区分整トン。

⑥ そこへ丁度戸駒君がきていて、二〇部のうちから十部ばかりとりだして<帳合い>をしてくれた。これがまた、折った上で、小さい紙片を、頁をまちがえぬように束ねていくのだから、大へん。

⑦ 束ねて一冊になったものを、こんどは三方裁断、一冊ずつ、カッターで。まがったり切りあとがむしれたり、切りすぎたり、一冊にカッターをうごかすのは、七・八〇回。いやはやこれにはてこずった。二〇号位からとうとう一方だけの裁断にした。

⑧ 背中のカッターあとにキズをつけ、ボンドで一冊ずつ無線トジの、ノリヅケ。クリップではさんでクギにぶらさげて、かわくのをまつ。

⑨ 五時間ほど放置し、こんどは用意の表紙づけ。(この表紙は小松さんの遺稿集をつくった裁断ののこりを保存していて利用)ひとつひとつノリとふでで。

⑩ ついで、アート紙に、マジックペンで一つ一つかいた<向井孝小詩集>という題字の小紙片を、表紙と背に貼付。ハサミでとくにはみ出ている部分を剪徐して、ようやく一冊出来上がり。

 今日、現在までに、日夜大奮闘して、七九冊仕上げ第一号は芳村君にわたしたが、多分八月ごろだったから、もう半年以上かかって、まだまだ、というわけで。

        *                      *

(余白に)

 

風景 7  (これはコスモス八号発表用のもの)

チンチン鳴っている 踏切り

いつまでも 来ない

と、いま ぼくのなかから

ふらふら 出ていったのは

あの右肩を下げるクセの――

出勤すがたの

たしかに――ぼく。

あっという間もない

眼の前のものみなが 消える

と――

快速電車にはこばれて

とおく 小さくなっていく

叫び声

――踏切りには、誰も

   いなくなった――

  Ⅲ

いま退けてきたように

旭町どおりを下っていく。

立のみ、パチンコ、貸本……

大提灯が目じるしの丹波屋

もう そこを 左へは 曲がらない

飛田の大門まで――ずうっと

ただ――それだけ!

 

  • サルートン一五九号 一九七四年三月十日

 広告――現代の出版機構は、求める本とめったに出あえない仕組みになっている。そして、『本は、出版社の宣伝と著者の有名度でまず選択され、買われる――』ということからすれば、十年前、名古屋で死んだこの無名の一老アナキストの<評論集>など、全く売れる筈はないことは判りきっているのだ! しかしたまたま、何かの機縁でこの本を手にした読者は、<有名性>に対する<埋没した無名性>のなかにある無尽蔵の価値に、一読して、うちのめされる筈である。

 この数行の広告による――この本との出合いの重要さにきづかれることを!

 小川正夫評論集

  《性とアナキズム》  送料共・一冊六〇〇円   (二冊特別価 千円)

                               サルートン取扱い 

 

 続 コスモス雑記  二月二十一日記

      前号は大急ぎで書きとばしたので、書こうと思っていて、つい忘れてしまったことがある。それは――

     7

       <向井孝小詩集>には、詩十四編のっているわけだが、ぼくは――<小詩集>と名づけたその一冊に示された手づくりのあと――を<一つの詩>として受取ってもらいたく――実は詩十五編と、云いたいわけなのである。

 詩が<本音>をあらわすものとしたら、この手づくりの豆詩集ほど、ぼくの<本音>に近いものはない。

 それが、字がややよみにくかったり、裁断がメンドウで、上辺、下辺の分を省略したり、ノリヅケがまずかったり、手書きの題字が、荒っぽくて下手だったりという(まあぼく自身が出来上がりの点数を自分でつけると五四点位――せいぜいヒイキして六〇点やっと)こともふくめて、まさにぼくの<本音>本性の<作品>というところである。

     8

 ところで、その<詩集という作品>と、その他の十四編の作品とは、殆ど共通するものはない。その二つのものの大きな<隔絶(隔絶に点)>の両方に、ぼくは足をかけて、服を引裂かんばかりに、ようやく立っている――というのがいまのぼくの詩作だ――ともいえる。

 そのことを自分にはっきりさせるためのものとしてこの<小詩集>つくりは、ぼくにとって一つの意味をもつものだった。

 さらにもうひとつの意味は、この<小詩集という名の作品>が、<言語化>されたいわゆる詩篇として、そのままにあらわれるためには、<詩集つくり>の方から、それをはじめていくのではなく、やはり、いわゆる詩の方から、近づくことをはじめねばならぬのではないかということである。

     9

 <詩>の方からどうやって近づくか。それを比喩的に云うなら、両足をかけていた一方の岸から、片足をうつし――つまり<詩>の方の岸に両足で立って(ここの文に点)、向う岸をどのようにとらえるか、考える――ということになる。

 <ウソからでたマコト>ということばがある。つき放した向う岸の実体は、およそ自分にわかっているものだとするならば、それへの恋着――あるいはこだわりを遠ざけるのも、逆療法的なひとつの方法である。それをふり切り、無縁のものとし、あるいは、全く別の視点からつくり出す。云いかえると、うそとまことをつきまぜて、いかにも<本音>らしいものをデッチあげてみようとする。 すこぶる偽善的に――つまり試作品としての、別の本音を創作する――ということなのである。

 もとより、そういったって、それがそう簡単にできるとは思われない。ここ数年かかって、詩へのリターンマッチとして<開き直り>をこころみようと思っている。子どもの「ウソ泣き」がいつしか「本泣き」になってしまうように。

 (付記・1)

 コスモス次号にぼくは、<押切と高島の詩――七号作品評にふれて――>という小文をかいた。そこで、ぼくは詩の技術――叙法――方法論について簡単にふれた。その文章とあわせて、この小文はぼくの詩について、今の立場をあきらかにするもの――である。

 (付記・2)

 十七日の集会で、ぼくのリターンマッチ宣言が、詩をかくことに専念?するかのようにとられてそれは反対――というような意見を下さった方があった。もちろん。そのつもりはない。今迄のことをやりつづけながら、なおその上に、できるだけ……というほどのことで、ぼくにはさほど重大な意味をもっていない。しかし先号でもかいたように――その公示によって、はねかえってくるものを、自分へのムチにすること――で、重大なものにしてしまおう――という意図はある。

 

 <追記> しばらくして、前号からのものをふくめて、このコスモキ雑記は、いかにも、いま現在ぼくがかいているような傾向についての<自己弁護><こじつけのいなおり>にみえる――と思った。

 もうこうなったら、エエイめんどクサイ。リクツはともかく、かけるようにしてかく。すきなようにかく。ヘタな鉄砲も――で、たくさんかく。たくさんかくために、かきやすい方法でかく。うまいまずいは、出来たときのこと――と云うよりしょうがない。二月二八日

 

 お礼

 二月十七日 百番での会、わざわざ来て下さって、二千五百円も会費をとられて、数時間のさわぎをガマン?してアソンで下さった方にお礼を申しあげます。世話してくれた人にも。それ以来、連日酒ののみつづけ。体もよわり……ずっと鬱病気味――

 

偽善的に

○ <向井学校>など云い出したのは、極悪人寺島珠雄である。 そう云われるとぼくはいよいよ<偽善者>の本領発揮。いつのまにか、やることしゃべることみな、お説教と教訓ばかり。人にはサービス、つきあいにこにこ。……(みんなが一とおりしゃべって帰っていったあと、ひとりとりのこされたサルートンの奥の部屋で、とたんに悪鬼の形相に変わったぼくが、あたりせましと立ちはだかり、うめき、どなり、走りまわって、狂うのをみた人はいないだろう)

○ ところである日、ぼくは気づいてガクゼンとした。向井学校なんてどこにもない。しいてあるといったら向井校長がいるだけで、かんじんの生徒はひとりもいない。それで――向井校長は、一生懸命、生徒でもないアカの他人をつかまえて、ともかく授業を行おうとする。ムリヤリ教室にひっぱりこんで、イスに坐らせようとする。まるで一人合点、見当ちがいの生マジメさで、ドンキホーテほどに泪ぐましく、ひとり芝居をやってきたのである。

○ ある夜、Z君がやってきた。彼は、いままで定職らしいものについたことがなく、まあ小遣銭位は何とか稼いでも、その生活のほとんどは、彼女――すなわち同居している性関係の相手に頼っていた。 ところが今年から彼は働き出し、月八、九万の定収入がはいり出すようになったらしい。――そんなことを話して、「それで彼女は、このごろ、さかんに貯金しはじめてる。ぼくが働いてるおかげで……」と云うようなことをのべたわけである。

 そこで――遂に、テントウ虫ならぬ向井校長はシャシャリ出て、

 「アホ云うな! 君のおかげで……貯金……。そんなことない。 彼女が自分の力で自分の金を貯金してるのヤ。つまり、今まで、とっくの昔から彼女は貯金できるのを、君というヒモが、させないようにしていたんヤ。マイナスだったのが、ようやく〇になっただけで、君の働きが、彼女に貯金をさせてるナンテおもいあがりもはなはだしいこっちゃ……」

 ぼくは、自分の気に入らぬことをきくと、すぐカーッとするのである。それを偽善的に、わざとおしかくして――というより変形して――きわめて<教訓>的に、しつこくしゃべることになるのである。(ああ――思えばこの被害者数はどれほどゾ。もし向井学校が本当にあるなら、それは被害者たちをあつめたものだろう)

○ 「ヒトのこと、ホットけ! 」「イランおせっ介やくな」「一コト多スギル」――これは十七日夜、HとN君両君のギロンが昂じて、一方が立上がりかけたとき、ぼくが、「よしケンカやったらオレが買うたる!」と云いながら、どなったことばであった。がそれ以来まるで、ぼくの脳裏に、ダニのようにしがみついて放れない。そして、そのまま、ぼくの日常の言動にはねかえってくるのである。

○ ぼくがZ君の言葉尻を捕えたからといって、彼と彼女の関係が変わる――わけはない。そんな低い次元をもう超えている二人の有無相通じ補いあう関係に対して、ぼくの発言はまったくおせっ介以外の何ものでもない。<向井学校訓話>のポンチ絵ぶり、まさにかくの如くである。(Z君ゴメンヨ。みなさんどうか赦して下さい)

 (向井学校はただちにつぶしてしまいたい。だが、いま、一人、生徒が新入学してきているのだ。その名を――向井孝という――こいつをウンとしごいて卒業させたら、それで生徒はなし、自然廃校になるだろう。)

 

《あさひ町から》  二月二八日記

○ 三月八日午後上京。六時半に常陽コーポ(電話322-8717)にいきます。そこで数時間、<共学 雑談会>(赤青黒の色鉛筆。軽便カミソリ。砂ケシゴムを持参する方はして下さい。その他、古切手、古切符なども)。その夜と九日はそこにとめてもらいます。

○ 三月九日(土)午後一時、上北沢エキ集合→石川文庫へ。石川さんの蔵書のセイリ。手伝いにきて下さる方を求めています。

○ 三月十日(日)午前十一時、上北沢エキ集合→石川文庫セイリ第二日。夕刻五、六時ごろまで。

○ この両日、石川さん所蔵の旧著パンフ等で多数在庫があるものを領布します。 今回最大の呼びものは、昭和四年~九年までの五年間刊行された<ディナミック>紙。全号揃い(一部コピーあり)原本合冊です。但し五冊かぎりで、注文は特定をのぞき先着順です。

○ 小川正夫評論集は、なかなか好評のようです。よろこんでいます。読後感など送って下さるとうれしいです。

○ 評伝<山鹿泰治・人とその生涯>は、原稿を印刷に入れました。三月十日ごろ初稿ゲラが出る筈。刊行は四月中・下旬というところでしょうか。

 いまから予約注文して下さるとありがたい。その方には定価(未定)の25%引きで送ります。

○ 三月三一日、杉藤二郎さんが七十歳になられたお祝いを、沼津・三津で何人?かの人をよんでやられるとか。それに出席をかね、ついでに、すぐそばの山鹿文庫へ立寄るつもりです。

○ 太平出版<根づきの思想>の応募原稿二〇篇が送られてきました。いまそれをよみだしたところ。十日までに、その感想めいたもの三〇枚ばかりをかく予定。

○ 新日本文学四月号(三月十日頃発売)に、<暴力と非暴力の間で>二十枚ほどのものをかいた。

○ 小詩集、あと十部ほど領けるものがのこっている。プレゼント交換(サルートン一五三号裏面参照)求む!

○ このごろ、二時三時になって、またサケをのみに出ることが多い。……しずまりかえった深夜のカマは、ガタガタ、オコリのように足先からフルエ上がってくる底冷えのなかで、何かすさまじいうらみのおもいのようなものがみなぎって、いまにも爆発しそうにものすごい。しいんとして、人影ひとつない 大通りの明りの下をとおるとき、とつぜん、にゅっとのびてきた我身のくろい影にぎょっとする。