「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

非暴力直接行動 151号

  • 無力ですこしも勝目がない ”市民運動”論
    • 6 負けても負けてェへんとは

▶たとえば「虹の会」と「かたつむりの会」の両方にかかわっている人は何人かいるけど、そのことと会とは特にかかわりなく動いてるやんか。けど、別々の動き方やけど、それぞれの運動の力にお互いなってるし、支えあってる。

▶しかし、なんでもないことのようやけど、それ位のことも実際にはあんまりできてないみたいやね。

▶そういうのがもっと各個別運動全般にひろがって、普遍的な運動原理になったら、だいぶちごてくると思うんやけど…

▶つまり、いつも云うてる自由連合いうか、助っ人論やね。

死刑廃止と反原発とか、反天皇制と自然保護とか、ま、それぞれがまず自分のやってることを自分がガンバラにゃその運動はどうにもならへんけど、仮に死刑がなくなっても原発は止まらん、というふうに、『やってますか健康法!原発ひとつですべてムダ!』ちゅうことになる。それひとつを何とかした、勝ったといっても、それだけではほんとに解決したことにはならへん。

▶勝ち負けいうことでは、私らはいつも負けつづけてきた上に、万が一、ひょっとして自分の運動が勝ってもすぐ負ける。他のとこがそれを力にして次々に勝ってくれんと、今までのように三日天下の明智光秀みたいなもんになってしまう。

▶その反対に、自分のとこが敗走しても、ほかのとこで味方がガンバッテたら、敗けてしもたことにはならへん。

▶つまり、市民運動として自分のやってることは一つの局面だけやけど、よそのいろんな局面もあわせての全面戦争やねん。そのことがいつもちゃんと判ってたら、状況は逆転するんやけどなあ。

▶くりかえすと、自分にとってピンからキリまでのいろんな運動-自分の視野のうちにあるもの、ないもの、すべてが自分らの仲間というべきものの闘いで、みんなガンバッテや、こっちもやってまっせェーという自他の認識(自由連合論)と、その具体化の技術(助っ人論)、それが市民運動に不可欠な「連合戦線」をつくるもんや。それの「原則的共同認識」こそが、市民運動にとって唯一で決定的な「力」やと、わたしは思ってるねん。

▶運動やってもしょうむない、なんていわんと、やっぱし続けていかなアカンな。

▶結果に意味を持たせたら、負けてばっかしの運動に意味はないけど、負けても勝っても、その過程が意味があるんや。負けても負けても、まけてェへんーというのが人民の歴史や。人民の運動や。

▶そりゃ運動してもさっぱり世の中変わらへん、ますますアカンことになってきてる、とゆうのは、まあその通りや。大きな川の流れに遡ろおとして結果、やっぱり流されてる、ということや。

▶けど、しかし、ただどっと流れのままに流されたんではなく、遡ろおうとすることで、つまり運動することで自分個人としてはずいぶん変った景色を見ることができる。喜こんだり悲しんだり、それが生きてることのしるしやんか。

▶なんというか、運動をつづける最後のよりどころは、自分のためやなあ。「生き甲斐」いうか、自分のよろこびの問題やからなあ。

▶それで、負けても負けたことになれへんで、またやり出すことができる、というわけやな。

▶権力のものさしと、わたしらのものさしとは違うねん。