「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

~真柄さんへの恋歌~       向井 孝

~真柄さんへの恋歌~       向井 孝

 

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一九一一年一月二五日、大逆事件首謀者として刑死した菅野スガ子が、その前日、堺利彦の娘真柄に送ったハガキが残っている。

『まあさん、うつくしいえはがきを、ありがとう。よくべんきょうができるとみえて、大そう字がうまくなりましたね。かんしんしましたよ。まあさんに上げるハオリはね、お母さんにヒフにでもしてもらって、きて下さい。それからね、おばさんのニモツの中にあるにんぎようやきれいなハコや、かわいいヒキダシのハコを、みんなまあさんにあげます。お父さんかお母さんに出してもらって下さい。一度まあさんのかあいいかおがみたいことね。さよなら』

「さよなら」とただ一語にすべてのおもいを託した、そのハガキが真柄にとどいたとき、スガ子はもうこの世の人でなかった。そのハガキをうけとって、八歳の少女のちいさな胸裡に、どんなおもいが去来したのだろうか。

あるときぼくが真柄さんに、「そのハオリやお人形は?」ときいたことがあった。

「もうみーんな忘れちゃった。覚えてないの」というと、とつぜんぐっと宙をにらんで、「くやしいわね」と言ったきり、長いことことばがなかった。

ことしの一月七日、東京で女たちが予め申し合せた「Xデーアクション」として、新宿正春寺に集り、菅野スガ子の墓参りをしたというニュースをみた。当日は昼頃から延べ70人ほどの女たちが真っ赤な花を手にあつまってきて、天皇制いらないと叫んだという。

ああ、真柄さんが生きてたら、とぼくはすぐ思った。

すると、写真の女たちの列のなかにまじって、ここよここよ!と手をふっている真柄さんの呼び声がふと聞こえるようだった。

 

もう一七、八年まえのこと、添田知道さんらが出していた冊子「素面」に、真柄さんの「草の中から」という小文がのっていた。

『大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が憲兵甘粕に虐殺された九月十六日が、今年も近づいてきた。それは一年に一度必ずやって来るのであって…』という、一見さりげない書き出しのその一句から、ぼくは強い印象を受けた。

そしてその二年後からはじまり、以来例年九月十五日に行われるようになった「橘宗一墓前祭」は、ただ大杉や野枝や宗一の虐殺を想起するだけのものに終らず、ぼくにとっては、そこで毎年一度必ず真柄さんに出会えるということによって‐(うかつにも長いことそれと気付かなかったが)‐幸徳やスガ子やそれから古田大次郎や中浜哲、金子フミ子、和田久、とつづく多くの忘れがたい人々へのおもいをこの一日に凝聚して、「一年に一度は必ず来る」日となったのだった。

 

「墓碑保存会」に、ぼくがかかわりをもつようになったそもそもは、七十三年一月幸徳大逆事件記念集会に上京して、真柄さん宅に泊まったことにはじまる。

たまたま、墓碑の発見を伝える西本令子さんの来信をみせられ、すぐに行けない真柄さんにかわって、「ちょっと様子をみてきてよ」という依頼にしばられての、名古屋途中下車だった。

日泰寺の墓域は思いのほか広大で、二時間あまりをさまよったあげく、とうとう西本さんをまで呼出して案内してもらうことになった。

その墓碑は、冬枯れの草に半ばかくれながら、他の墓碑と全く反対の方向をむいて、夕ぐれちかい風の中でひっそりと建っていた。

そのとき折返し真柄さんへ送った手紙で、ぼくは次のようなことをかいたとおぼえている。

「...その『犬共二虐殺サル』とともに、とくにぼくは、『なでし子を夜半の嵐にた折られて、あやめもわからぬものとなりけり-橘惣三郎』-とある歌をみたとき、しばらくはただ佇立するだけでした。

最愛の子(宗一の)不慮の死と、それに起因して妻(あやめ)とも離別することになった、この若い父親の悲嘆と愛憐と憤怒のおもいをこめた「絶唱」は、時空を越えて、ぼくの身うちを貫くようでした。

真柄さんがお宅の茶の間でおもいをこめて話されたこと-何とかこの墓碑の意味を世間に顕かにし、悲運の惣三郎氏の、勇気ある警世の声を伝え引きつぐようなことを...という趣旨に、ぼくも微力を添えたいと思います…」

いまからふりかえると、それ以来真柄さんの、この一事に余生のほとんどを賭けたといってよいような、並々ならぬはたらきがはじまったのだった。

そして当初の、寺との交渉などのむずかしい条件や事情を克服して、とくに地許名古屋の、藤本さん鬼頭さん竹内さんらを中心とするおおきな献身で、その二年後には「保存会」が発足することになったが、それも真柄さんのおもいなくしては、決して成就しなかったといえるだろう。

 

「藤本さんらがやって下さるから、もう安心」といいながら、最後まで真柄さんがどんなに九月十五日におもいをよせていたか、ぼくの手許に残る手紙を紹介したい。ずっと病床にあって、どうしても参加できなかった八二年の墓前祭前後に発信されたものである。

★82年8月18日付手紙。『(略)』「お体の」調子は、よくなるというのが無理でしょう。皆様のお力、お励ましで生きています。(略)「名古屋の頃」となりました。よろしくお願いいたします。幸子さんは行きます。このあいだ近藤の命日に来て下さって話しました。この日

八月六日でしたが、雪谷へ私もいってきました。(注。このころ真柄さんは、杉並の二葉さん宅に身をよせ療養中)年忌を数えるわけではないのですがもう十三年です。多くの方々を見送りましたが、世の中は逆転していきますのみ。(略)藤本さんが万事して下さると思いますが、今後ともよろしく御助言を願います。遠藤さんはどうしているかしら。(略)

★82年9月3日付ハガキ。『〝おことば″うれしく拝受。私の父も、地方の方へ、何かのついでに一筆書いて、喜こんだり喜こばれたりしてたみたいです。私も悪文悪筆でマネみたいのをしていたのですが、頭も手もまわりかねます。

九月十五日何卒よろしく。去年の墓前の写真、藤本さんから頂いて、みなさんのお顔をみました。ふうさんのをよく拝見。』

★82年9月11日付ハガキ。『十五日よろしくお願いいたします。瀬戸内さんもいって下さる由。遠藤、小島、幸子の諸氏も行って下さいます。

和田久さんのことが本になるそうですが、久さんと村木さんをうまく、本当にしらせたらいいですね』

★82年9月22日付ハガキ。『お世話さまでした。盛会だった由。そして皆様お出で下さった由嬉しく。そしてお心にかけての「寄せがき」どんなにか心をゆさぶりましたか。どうも有りがとうございました。すぐにお礼も書けずにいました。段々にあちらの方に引っぱられる順序でしょう。大島さんが今日来て下さいました。ふうさん一度お目にかかりたいと思っています。』―

このいずれも字体がひどく乱れており、ところどころ判読してもよめないような筆跡で、真柄さんの病状があまりよくないことを示していた。そして、この9月22日付のハガキを最後として、ぼくはもう真柄さんからの手紙を二度とうけとることができなかった。

それにしても、文字どおりの立てつづけで、「名古屋の頃」「九月十五日何卒」「十五日よろしく」と、ハガキしてきた真柄さんの墓前祭によせる病床での心裡をおもうだけで、ぼくは体中が熱くなる。

真柄さんが逝って、はや六年。

だがぼくは、毎年一回、ずうっと墓前祭で真柄さんに出会ってきた気がする。

だから、そして今年もまた、ぼくは真柄さんに会いにいく。もちろん生前の真柄さんと共に生きていた幸徳や大杉、スガ子や野枝やフミ子、和田久や村木源次郎...にも。

それにつながる九月十五日のなかまたちー佐藤ふみさん小島康彦さん笹本雅敬さん...にも。

きっと来ているだろう。

一年に一度は必ず来る九月十五日、その日に。