「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

非暴力直接行動 176号

  • いまこそ 女たちの声よ 起これ

  • 鵜飼町から

▶9月11日(火) Tシャツ裁判で福岡へ。(太田くん同行)福岡に一軒だけしかない沖縄料理を食べに行って海の会へかけつけたら、もう会議が終わってしまっていた。

▶9月12日(水) Tシャツ裁判に傍聴にきてくれてはるので顔なじみになった野口さんの就労闘争があるというので、公判前の朝の一仕事で助っ人にいく。野口さんは保母をクビになって5年。それ以来のずっと就労闘争だ。就労闘争というものにはじめて出会ったけど、これはキツイ。こどもたちが遊ぶ保育園の前で横断幕をはり、ハンドマイクを持って解雇の不当を訴えるのだが、なんの反応もないし、新旧の出入りがはげしいからいっしょに働いていた同僚もこどももその親たちもすでにいない。応援してくれるもんもだんだんいなくなる。保育園のなかからこどもたちを呼び込む、おもしろい音楽つきの紙しばいでもつくって、いっしょに「遊ぶ」ような就労闘争がでけへんかしら、と思った。午後一時半からTシャツ訴訟法廷。松下竜一さんの意見陳述はなんで東アジア反日武装戦線の人たちと自分がかかわるようになったかを熱をこめて。えらくしゃきしゃきしてはる裁判官にまたかわってた。

▶9月13日(木) 手術して丸2年。ガン2周年を祝って、太田くんと栄さんが京都の洋食屋に招待してくれた。

▶9月14日(金) かたつむりの会出席。2・24プロジェクト、もうあんまりのんびりしてられへんのに、なかなか進展なし。

▶9月15日(土) なごや橘宗一墓前祭(ことしで16年目になる)。わたしはこのあつまりにはずっと冷淡で不熱心やったけど、この日は、向井さんにとっては明治・大正・昭和の三代にわたり、権力によって殺されたたくさんの墓標なきアナキストたちの命日のつもりなのだった。それにつらなるアナ族の一人として向井さんの思いがだんだんわかって、今年はわたしもちょっぴりそのことを意識して参加した。

墓前祭のあとの記念集会は、鈴木裕子さんの講演。15年戦争を「昭和戦争」とよびたい、という提案や、はじめて耳にした「エロテロ」という用語、それから特に、ぼんやりとただ知っていただけの従軍慰安婦(10万とも17万ともいわれその70~80%は朝鮮人だった)の徴用が、まさに「強制連行」と同様の、それ以上に非人道的犯罪であったことに、はじめて気付かされた。(孝)

朝鮮人女性たちが大規模な徴発を受けたのは1938年の初めからであると推定されるが、その後1944年8月23日付けで勅令によって「女子挺身勤労令」が公布され、昼は弾薬運搬員や炊事要員、洗濯婦、看護婦として爆撃の危険にふるえながら酷使され、夜は日本軍を相手に「慰安」行為を強要された』

『…朝鮮人慰安婦たちには、名前の代わりに固有番号が付けられ、相手をする女性の番号札をさげて慰安所の前に列をなして待っていた兵士(ひどいときには一人で百人もの相手をさせられたという)たちは、自分の順番がくると、それこそ半狂乱の虐待をした。』

『…日本が戦争に負けて米軍が上陸すると、日本軍は自分たちの罪悪を隠ペイするために、慰安婦たちを帰国させてやるとだましてトラックに乗せた後に刺殺したかと思えば、防空壕の中に押込めて生埋めにしたり、ジャングルにそのまま捨てて逃亡してしまったりもした。戦争が終わっても彼女らは祖国に帰る夢すらもみることができなかった。…うち捨てられた彼女たちに旅費があろうはずがなかった…』

『…このようにして残され、日本や太平洋各地の島で転々としていた慰安婦たちは、日本軍とともに米軍の捕虜収容所に収容され、結局、再び米軍相手の慰安婦にされていったのだった…』

▶9月23~24日 第三回死刑廃止全国合宿。今回は場所がなごやにあたったので、犬山から出かけて準備の段階から顔出したり口出したりした。合宿のプログラムづくりはけっこうややこしいもんやった。被害者感情という問題ひとつとってみてもいろんな角度からの対し方があって、分科会のテーマとするにしても「どお設定するか」で議論がわかれた。ま、ともかく、充分満足できる討論や話しあいができたということではないけど、なにしろ90人もの人が集まってきた。それがなにより死刑廃止への思いのひろがりを感じさせてくれる大きなものやった。そして24日、安田弁護士は、「ひょっとして、わたしたちは近いうちに、”国家が死刑を手ばなす時“という歴史的場面に立ちあうことができるかもしれん」と、幻想ではない大いに可能性のある話としての状況を語ってくれはった。わたしの陀羅尼は「あと10年、いや9年半」や!

●全国合宿は何よりも女たちが多く参加し、よくしゃべり目立ったーということをぼくは特記したい。これはそれだけでこれからの運動の可能性を保証するものやと思う。在来の運動によくみられる中央とか事務局とか東京とか「男」とかの主導型の質がくずれ出しているということでもある。(孝)