「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

非暴力直接行動 189号

  • これやこの ゆくもかえるも運動の ゆくへも知らぬ 恋のみちかな(下)
  • 特集 行方しらずの運動論
  • 社会主義人物事典用原稿

村上義博 ▲1930年ごろうまれ▲55年ごろ没▲自由労働者▲学歴未詳▲筆名 沖田▲中央自由労働組合・野蛮人社・黒色青年連盟・AC労働者連盟・自由運動社・日本アナキスト連盟などに所属。村上については2-3の断片的伝聞だけで、ほとんど資料がない

 

イ、1924年夏ごろ、震災後の復興事業現場で働く自由労働者だった。赤坂溜池の黒龍会簡易宿泊所で三上由三と知合った。ロ、同年11月同様にして知合った沢田武雄、小松亀代𠮷、生野進、三上の五人で、千住に一軒家を借り<野蛮人社>を名乗って活動をはじめ、26年1月に結成の<黒色育年連盟>に加盟、その時に惹起した銀座事件にも関係した。ハ、北千住署は、野蛮人社の管内追い出しをはかり、近隣からの苦情を口実に、早暁に急襲、全員を逮捕拘引した。留置所で小松が騒いだのを、看守(あとで判ったが柔道四段)が、その襟首をつかんで引きずり出そうとしたとたん、それまで一番おとなしくしていた村上が、突然立ち上がったと思うと、その看守を大外刈りで投げとばした。わぁーっと手錠をもってとびかかる応援の看守たちを、打ちはらい薙ぎ倒し、北千住署はじまって以来の大乱闘となった。村上はすぐ分離され、警視庁に送られ、裁判の結果二カ月の懲役をくらった。この村上の武勇伝に尾ひれがついて、各警察署に、要注意人物として通達され、同志間にも<村上伝説>として知られるようになった。ハ、28年5月の内部資料「警視庁特高課調べ」によると、「純正無政府主義」に分類された<AC労働者連盟>→<自由運動社>の欄に、三上とならんで村上の名がある。この頃の村上は、ストライキと聞けば、どこへでも応援にかけつけ、そのころ大ていのさばり出る雇われのスト破り暴力団から、争議団を防衛するのを、自分の役目としていた。ニ、39年2月27日、次の記事がある。『…村上義博君府下松沢病院に、尚引続き入院中…。元気旺盛、無職である。書籍、通信、訪問等してやれ』と。(特高は何かと名目をつけて村上を引張り、精神病院にほうり込むという手を、そのころからよく使い出し、そのご村上は何回も病院に入れられるようになる。) ホ、次は一ぺんに戦後にとぶ。岡本潤戦中戦後日記(風媒社83年刊)46年9月21・22の項に、『夜10時過ぎ、村上義博現わる』『村上、早朝に起き、仕事を探すと言って、めしも食わずに出かける。…とにかく40いくつになって、かういう夢を食ってる人間がゐるといふのは妙だ』。へ、48年5月14日付、<週刊平民新聞>72号に、小松は「佐賀市での<アナ連西日本協議会>に出席、その翌日村上と同道して、鹿児島の武良二を訪ね…、帰路、別府で村上と別れた」。そして武の通信記事で、「村上は市内盛り場と駅プラットで、平民新聞宣伝と立売りの演説をやった」と。ト、その後の村上は、各地の旧同志宅を訪ねたりしながら、放浪のような旅を、あちこちつづけたらしい。50年頃「もう、ぼくのやれるようなことがなくなりました」というハガキが来たことがある。チ、没年未詳。最後は、京都の精神病院に収容され、そこで、とも。そしてあの、<伝説>の戯れ唄-〈京ノ五條ノ橋ノ上、私服ガ六人組ミ付イタ ブルント振ウト 三人倒レ 二人ハ呻イテ蹲ル ノコル一人ハアバラガ折レタ…も、今はもう語る人もない。▲たとえ一人でも二人でもアナ系の特に無名の運動者の名を加えることができたら・・・というのがこの「事典」の話をきいたとき、まずぼくが思ったことだった。▲しかし事典が刊行されても、もともと「よみ物」ではなく研究者が資料に使うとしても、無名者の頁はめくられることもないまま、やはり読まれないのではー▲まだ送稿してない未定稿だが、ぼくが捧げるささやかな紙碑として「三人」に代表してもらってここに掲載した*1

 

*1:1967年11月12日 労働と解放5号「黒色自由労働者組合ーAC労働者連盟の思い出 横倉辰次」の記事中に村上義博の名が出てきます。同紙には向井孝の記名記事もあり、それによると向井孝が最初にあったアナキスト笠原勉も8月6日に亡くなったと。。。

http://www.kamamat.org/a-ken/paper/p-pdf/hoka/roukai-67-5b.pdf