「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

日に焼けた紙片の意味──開架にあたって

向井孝(1920.10.14–2003.8.6)と水田ふう(1947.2.14–2020.2.16)は、敗戦後に廃材で建てられた家を、終の棲家とした。
犬山城の坂下、数分歩けば木曽川の水面を眺めることができる、傾いた家。庭にはクスノキがそびえ、猫が数匹、開け放たれた窓からいつも自由に行き来していた。時どき、人間や猫の幽霊が出て、見える人には見えた。

そして、訪問者の誰もがおぼえているのは、家の壁を覆うように配置された書棚だろう。そこには、数千冊の書籍のほかに、自他のつくったミニコミ、機関紙、原稿執筆用の資料の入った封筒が、文字通り溢れるように収められていた。その書棚は、ふたりの運動の旅の記録、この世を先に去った仲間たちの記憶そのものだった。
可能なら、その書棚ごとどこかへ移動して、保存したかった。ふたりの名前をつけた図書館みたいなものとして。
もちろん、そんな場所を用意することはできなかった。書籍は友人・仲間に殆ど寄贈し、ほかの資料についても一定程度廃棄しなければ、家をたたむことはできなかった。
だから、このBlog「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は、いまはもう存在しない書棚の姿を、ネット上に投影したものなのだ。

1980年代に手書きのミニコミをつくったことのあるベテランなら、当時、自主的な出版物、印刷物をテーマとした本に向井孝の名がいつもあったことを憶えているだろう。
原稿書きはもちろん、ガリ切り、和文タイプを駆使した版下作成から印刷まで──すべて自力で制作して、全国の仲間へ「秘密の切手」で郵送されていた機関誌・紙の数は、組織の後ろ盾をもたない活動家のなかではおそらく最多だ。
ふたりの活動期間をつなげると(1946–2019)、70年を超える。その間、休みなく、次々につくりつづけた通信、雑誌、パンフ、ビラすべてを収集することは不可能だと思う。

その膨大な数は、ふたりがいかに呼びかけつづけたかを示すものだ。
個人の思いから呼びかけ、呼び合っているものがつながり、行動する。
しかしそこで報告して終わり、にはならない。
行動は、「書く」ことで自分のものになる。自分がしたことの意味を、自分で「書く」こと。それをしないかぎり、何かをしたことにはならない──というのが向井孝の考えだった。水田ふうも生涯、それをあたり前のこととして実践した。

ふたりのつくった印刷物の特徴は、その一連の過程がすべて刻まれていることだ。
呼びかけて、呼び合って、行動し、自分が何をしたのか、その行動にことばを与える。何周も何十周も、ふたりはその過程を何くわぬ顔でこなして、あまり上等ではない紙片に、自分の筆跡で書き遺した。

ここに公開される、日に焼けた紙に刷られたことばが発せられた時代は、はるか遠い過去に属する。
しかし、そこから見え、聞こえてくるものは、いまなお無数の、未知の仲間が呼びかけ、呼び合い、つながろうとしている世界と通じあうものだと私たちは信じる。

La 6an de Aŭgusto 2021

中島雅一 

追記
過去の自分たちの印刷物を公開するより、自分のことをやれ、書け、と言うに違いないふたりだが、生涯の最後にデモで出会った名古屋の仲間との共同作業によって、「非暴力直接行動」が世に出されることについては悪くは思わないだろう──と、自分は勝手に考えている。