「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

IOM 130号 

  • ここ数日間のメモ
  • 自由連合をどうするか
  • 自連はなにをやってきたか(131号へ続く)
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 ○ 六月は、ぼくにとって何故かメランコリックなおもいに閉ざされる月である。その六月がすぎてもう七月中ばというのに、今年はなかなかそれが立去らない。ふりかえると葬列のように悪夢めいた日々が、ぼくのうしろにつづいていて、それをふり切ろうとして身を反転させると、長いシッポのようにそれらがくねって、はねかえってくる。

 ○ 自連廃刊と一しょに、イオム通信をもやめようかナ、とおもったりする。がきっとやめたら淋しくてたまらぬだろう。もう逃げ場がなくなる……とおもうとおそろしい。あなたはお元気ですか……向井孝

 

  • ここ数日間のメモ

  ぼくは殆ど毎日地下鉄にのる。途中のりかえがあって乗車時間は五分と十一分、のりかえと待ち時間平均八分計二三分~二四分。その間の短くぼんやりしているときに、大がい紙きれ(B6の大きさに切ってある)とエンピツをとり出して、おもいつく断片をメモする。イオムにかくことは、ほとんどそれが種である。

  (姫路――大阪間の列車内は、睡眠不足をとりかえすために、もっぱらイネムリ専門)さて、このようにイオムを出そうと思ってガリ切りをはじめたもののさっぱり書きすすむ気がしないので、今回は、そのメモから、そのままを、記録がわりに――順不同

○ 小田実の「世直しの倫理と論理」をよんで感心した。それから、例えば<世直し>を<革命>とかいたら、新左翼の――多分はじめから気ぎらいしてよまない――学生たちもよむだろうと思った。<世直し>というのはいかにも明治のはじめに群出した新興宗教が使っていそうで、古びている――

○ <革命>ということばも随分古びている。例えば、おまえは革命的闘いを闘っていない。文化主義者にすぎない。というとき、まさか発言者は革命と文化とが無縁と思っているわけではないだろうが、うっかりすると革命と文化とは対立するようにきこえる。「何が革命か」そのとき口にしている革命とは何か、それを一々ただし共通の意味をもたせないかぎり<革命>運動は混乱するばかりである。小田が<世直し>と呼びかえたのは、まさにこのようなこともあってのことダナ、とようやく気付いた。そして(イ)革命ということばをそのままあっさりと濫用せぬこと。 (ロ)云うなればフランス革命・中国革命のように歴史的事実をさすものや、 (ハ)消費革命・流通革命のように極めて内容を限定し、あきらかにするような意味で、すくなくとも政治革命〓政治に傍点〓とか生活技術革命とか (ニ)カッコ付きで革命ということばを使用することに今後はとくに留意する必要を感じた。(わけのわからぬ<革命>なんかクソクラエ)これからぼくは、必ず<××>革命という風にカッコ付きで意味を限定することを励行する。

 

○ ポスターを原価五円で、十分間ほどでつくる法。

<用紙> 町に貼ってあるポスター何でも。色々用意のこと。

<材料> サンナー(ポスターの印刷カラーの不用部分を消すために)ハサミ。ノリ。マジック十二色又はポスターカラー。筆。ボールペン(ポスターカラーの代わりにクレパスなどでもよい)

<作成法> 例えば自衛隊のポスターを例に、①どの部分を消し(又はぬりつぶし)どの部分を活かし、どの部分を変造するかを考える。 ②消すのはシンナーで。その上にポスターカラーをぬる。 ③変造部分はシンナーで消してかいたり、他のポスターの絵をきりぬいて貼る。 ④字は他のポスターの文字部分をきりぬいて貼る。やむをえない時以外、手でかかない。 (注意)他のポスターとの合成というつもりで、たとえば、自衛隊ポスターなどで、自衛官が三人ならんでいるとすると、帽子から下――顔の部分をがい骨の頭(ポスターの裏の白紙を利用して切り抜いたものを貼る)にするとか。三人の視線(眼の部分を変造)が裸女(週刊紙のグラビアなどからとる)をみつめている、とか。 これを五十枚位いろいろつくって、街頭の電柱・並木・道路策柵などにくくりつけての街頭展などやるとおもしろい。

◕ ポスターの画鋲のはがし方。十円玉をテコにピンピンはねとばしたら、アッというまにとれる。

 

○ 同じような目標、目的が遠くにあるとき、異なったグループ間においても、容易に共同の行動がとれる。行動の一致は可能である。だがその目標が近づくにつけ、あるいは目標を明確かつ詳細に規定することによって、より身近くひきつけるとき、グループ間にはその行動姿勢にちがいが出てくる。そのちがいにもかかわらず、なお共同行動をとりうる組織論が<自由連合>である。

○ 異和の総和としての自由連合

○ 異質異種のものが何故結びつき(関係)をもちうるのか。<媒体>によってである。媒体は一般的普遍的なかたちでは存在しない。きわめて特殊個別的であり、その特性は<限定的>ということである。

○ <政治>は<目的>となっても<媒体>たりえない。

○ 一人べ平連というのがある。<見えない自由連合>を彼はきっと見つめているのだろう。彼は一人であってひとりでない。

 

  •  “自由連合”をどうするか

① 自連三七号編集室で、<自連もそろそろ廃刊のときがきたのではないか……>として四つばかり短い理由をあげた。そのときは、ある意味で、ほんの思いつきめいたものでさほど真剣に考えての問題提起だったわけではない。だが、ときのたつにつれてそれはぼくにとって切実な考慮の対象になってきた。一九六八年の夏、ぼくは旧、日本アナキスト連盟解散を提起し、それがきっかけで、結局その年の大会で解散が決定した。今になってみるとそれはそれでよかった、とおもうのだが、今度の場合はどうだろうか。

 旧アナ連は、それが存続し存在することによって――日本のアナ運動を代表せざるをえない、しかも内実的に代表しえない、ということで――今後新しく芽生えるものの前に立ちはだかるおそれがあった。それだけでも、その他の多くの存続すべき理由にかかわらず、解散は妥当だったし、それが七〇年を前にしての真の闘う道であった。

 だが、その論法からいって、自連は決してアナキズム運動の全てを代表するものでもなく、またセクトとして他と対立しつつ自己拡大をはかろうとしたこともない。むしろ存在することによって、他者にないもの、空隙の部分を埋めることをねがってきた。(一部で自連を、例えば麦社・CSL・自連一派などと敵視?するセクトがないでもないが、彼らは、こんど自連を自らがつぶす――つぶそうとしている姿をみるとき、ぼくらの側には対抗意識がなく、まったく一人合点のケンカだったことを知るだろう。)

 つまり一般的な立場から云って、すくなくとも自連の存在とその維持が、運動全体、あるいは状況全体にとってマイナスでない、としたら、自連を出さないことはかえってマイナスになるのではないか。廃刊はあまりにも軽率でないか。

 

② <四〇号でやめることにしたら……>とかいたとき、やめるなら、すぐにでも、と誰かがいった。ぼくは四〇号までの数ヶ月間、よく考え、かつ多くの人たちの意見が出そろうまで、どうしてもその考慮期間がいる、と思った。

 案の定、あっというまにその期間三ヶ月はすぎた。そしてぼくがあげた四つの理由には誰も反論せず、とりたてて問題をより具体的に発展させるという新しい動きはおこらなかった。とくに六月頃までは、編集社員からの明確な反論はなかった。それは、自連を廃める問題についての積極性がないということであると共に、同じく継続発行していく具体的理由と積極性がないことを表現する以外のものではない。

 

③ この編集社員――もちろん連帯責任としてぼくも――にある非積極性は、現在の自連の状況を明らかに物語っている。つまり

  1. a) 三年あまり刊行してきたという慣行、経験、基礎の上に、惰性的にいつしかアグラをかいている。
  2. b) その、ともかくの安定は<固定化> であり、新しいものを生み出すこと、あるいは<試行>や模索をやめてしまった状況である。
  3. c) つまりそれは、創造的な紙面つくりへの意欲を失いその方法をも持たず、自己内部のエネルギーも欠乏しながら、外部の刺激にも目をつぶる――という形で、新しいものをつくり出す可能性をとざし、そのままであればいよいよ自己閉鎖的に――しかもありうべくもない<自連>という城壁を編集社員グループ的に形成する――方向である。(これをぶちやぶるのには、新しい編集社員の出現(たった一人でもよい)参加であるが、しかもそれは、全く偶然にしか期待できない。(その偶然をいつまでもまちつづけるのか))

(註) <向井自連>ということばがある。ぼくが直接つくったのは六号まで、積極的にクチバシを入れたのは十号位まで。それからあとは、たまたま一面論文がないと云ってくればかく、というだけで、編集前・編集中の間はほとんどタッチしなかった。出来上がりをみて多少の意見を云うということでは一般読者とかわりなかった。なるべくデシャバラズにおこうというのがぼくの本心で、そのためAアジトへでかけるのをひかえて、小川信などの筆名をなるべくつかった。このようなやり方で本来的には廿号位で<向井自連>の名は消えると思っていた。にもかかわらず仮構的になお、その名がある。その仮構性は、みえない自連の垣根として存在しているといえば云える。(すでにそのように出来ている垣根――それが持たざるをえない自己閉鎖の質をうちやぶるための問題とも、これは関係している。さらにぼく自身にとって云えば、自連を廃めることは、その仮構の<向井自連>をつぶすことである。一方、自連は、つぶし方によって向井自連だった〓だったに傍点〓ことにもなりかねない。)

d) 現況において編集社員と名のりながら、不可欠の事務を担っている黒川君以外の三人はそれ相応の力を出しているとは思えない。大山君は(その意志はともかく)大分前から態度として自連発行体制の外側に立っているし、また昨今は備北問題で不在がちである。小池君は釜の救対活動に追われ、発行を手伝うという立場になっている。ぼくは口先だけの推進役でしかない。数人は一応連絡はとっているが実際はてんでんばらばらで、とくに大山君とは意志の疎通を欠いている傾向がある。編集社員にしてこのようで何が自由連合か。

e) もしとつぜん、黒川くんの生活条件がかわり、その任を放棄したら、自連の事務と発行体制は大きく混乱するだろう。そのようにいまの自連の状況は彼の条件とその肉体的物質的精神的な大きい負担によりかかっている。

 ……以上の②③は、自連発行の側、いわば編集社員としての私的で内幕をぶっちゃけたところから出てくる問題である。としたら当然、自連の読者側、受け手であって、しかも自連が<その時きみは社員である>とよんできた――いわば公的な部分のさまざまな相から、問題をとらえて考えてみなければならない。

 

  • 自連は何をやってきたか

 自連がその紙面を通じて語ってきたことを、最も具体的に表現すれば、<その時、きみは……の組織論>の問題だろう。それは、<その時、自連社員>であるとともに、また(例えてぼくのことで云えば)姫路行動のメンバーであり、新日文の会員であり、××会社××係員であり、コスモスの会員であり……つまり社員とは他のすべてにもふえんして云えるもので、自連社だけに社員であれと云っているのではない。そしてそのようないろんな組織に参加しつつ分裂することなく自己として全的に存在するすがたが、実は自由連合であると共に、組織論的認識でその綜合をとらえたとき、自由連合組織が存在しはじめることになる――といったことを、自連を通して、どれだけ実感的に読者→社員が自己のものとするか、にあった。(それは牢固として抜きがたくある中央集権的組織論――そして組織といえばそれ以外にない現代の諸組織と組織概念に対して、どのように、このような新しい組織概念のクサビを打ち込むか――〓である。もちろん発行数二千、月一回ガリ版八頁程度の新聞発行とそれに関係するささやかな諸行行為だけでは、巨像に挑む蚤ほどのことでしかないことはよくわかっている。だから、それは、まず自連の発行編集などに関係する、ごく小数のぼくら――そして出来うればそれをすこしひろげた――<社員>を自覚的にとらえようとする読者――さらによりひろがった形での比較的旧い号からよんでいる読者まで位で、自連のすべての読者ではなくせめて数百人位までを対象にしてのそれであった。

 換言すれば、自分をもふくめてそれらの人々が、第一に<自由連合>ということばの意味と内容を、自連紙その他から与えられた論理としてでなく、自連社に関係することで、その日常の営みから、<実感的>(それゆえ最初は無自覚でも)に、現実の具体的かたちとしてつかみ、技術をもふくめた<関係>としてつくりあげていくことであった。 第二に、そのような<試行>によって、それを自覚的に、めいめいが<論理化>し、かつ<検証>しつつ、認識論として、一面、また方法論・組織論として、体系化するグループが出てくることであった。 第三に、それを他の分野において実践論的にひろげていく動きが、いささかでも生まれ、拡がる気配をみせることであった。 第四には ◕このようなかたちと年月的経過によって、当初の<自連紙>は徐々に、かつその<自由連合論>が明確な像をあきらかにしてくるにつけ、大きく変貌し、自連社のそれをもゆりうごかす<運動>となるべきものであった。

 (このことについて、ぼくは自連紙はそれほど大したことはつくり出せない。たかが新聞紙の発行だけで……と謙遜も含めた過小評価の身ぶりによって、自己のなすべき<論理化>や、その論理にもとずく自連社内の人間関係づくりについて、大いに怠惰で無責任だったことを今になって反省している。しかもその怠惰・無責任性は、自然発生性というか、ひょっとしたら、何か新しいものが出てくるかも……という思い上がりのような心情に支えられていた、ともいえる)

 

 いまふりかえってみて、自連社は、その大まかなコースとして、自連紙の刊行という一事のみを通して、そのことをやろうとしてきた。といいうるであろう。はじめはほとんど無自覚で無意識に――二〇号前後よりやや意識的かつあいまいに。そして三〇号をすぎてようやく自由連合の内実に眼をむけはじめる、というかたちで。

 だが、自連社の社内的構成・読者と新聞との関係の質そのものは、一〇号と二〇号とで

殆ど同じであり、二五号と三五号においてもほとんどかわっていないという事実をそれに併合するとき、その奇妙な跋行の現象、あるいは<自由連合>とよばれるものの、自連社内での非現実性・非定着性には、まったく茫然とせざるをえない。

 そのように覚めた眼でみてみると、ガアガアその時きみは……などわめき立てる雑音を消してしまうならば、自連紙は、殆ど<自由連合>について、何も実践していず、時たま、ぼくによってかかれた小論文(それも些末的な)をのぞいて、<自由連合>とは全く無縁のものに見えてくる――    ……つまり<自連紙>や<自連社>は、そもそも向井がはじめたワケのわからぬひとり芝居に、何ダ何ダと首をつっこんで覗きこんだ姿勢のままの連中が加わって、中味のわからぬままにむらがっていたということではないか。そのひとつとして、例えば自連紙上に、編集社員としての大山は、小池は、黒川は、どのように自己の自由連合論を(せまい意味では)書き、(ひろい意味では)紙面全体に具現しようと努力したか。そのために、泣くような血のでるようなおもいで苦しんだか。 <自連紙>が<自由連合>を具現している……とよもや誰も思ってはいないだろう――具現する努力をしている、それを模索し試行しているというだけで、自由連合そのものではない――にもかかわらず、いつしかぼくらは、その紙名が固有名詞であることを忘れ、一般名詞としてのそれのように錯覚し、幻想のなかに自由連合と同衾した夢を抱いたのではないか。(未完)〓  (〓~〓まではイオム131号の裏面に)