「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 29号

  • 「無名」の人びと 1・2・3
  • 「世論」なんてクソクラエ! ーふう

 1

 わたしは「困った時には智弥さん」いうて、いつもお世話になりっぱなしやから、たまにはわたしも智弥さんのために一肌脱ぎ?たい。けど、こりゃあかんわ。

 「原稿執筆のお願い」文に「……いったいこの世紀末の世界と日本はどういう状況に置かれているのか、……それはどういう経過や根拠でそうなっているのか。どこかに打開できる道はあるのか……」なんて書いてある。そんなこと聞かれても「わたしゃ知らん」いうのが本音やし、だいたい「日本でそれぞれの分野で最先端の問題意識を持っている方々に原稿執筆をお願い」なんて、わたしにあてる方が見当はずれいうもんや。

 しかし「あんたは二〇年近くも死刑廃止いうて集会やったりビラまいたりしたんやろ。その責任でしっかり答えんかい」云われると云いかえす言葉もない。そやけど「凶悪犯人は死刑だ!という世論をどう説得するか、その方法は?」なんて、そんなもん、もともとあるかいな。あったらとっくの昔に「制度」がなくなってて、いまさら説得せんでエエわけやんか。

 この前(といっても半年も前やけど)、アメリカ村の三角公園から難波まで「かたつむりの会」やアムネスティのひと二〇人ほどで死刑廃止の仮装デモをやったんや。その時「死刑廃止」と書いた風船をいっぱい持って立ってたら、「それちょうだい。ちょうだい」云うて、気軽に若い男の子、女の子が寄ってくる。(この頃では、風船もらいにくるのは小っちゃな子ではなくて、中学生や高校生や)

 「死刑廃止の風船やで。ええか」いうて行き当たりばったりの話をしたんや。するとはじめは「しかし、やっぱりアサハラは死刑やで」なんて云うてたのが、「ふーん、そうかあ」なんて、帰りぎわには「ほな、おばさんもがんばりや」いうて、食べかけのタコ焼をくれたりする男の子もおった。そやから、世の中まァまァのとこもあると思うたんや。

    2

 というても、世間はそんな一人や二人やない。「世論」なんや。「マスコミ」なんや。「凶悪」事件のたびに、新聞、週刊紙、テレビなんかが大々的にかき立て煽り立てる正義の復讐心や。するとタコ焼くれた男の子の「そうかあ」なんて気持はひとたまりもなくひっくりかえるやろ。「やっぱり死刑だあ」ってことになる。みんな一せいに「死刑だぁー」っていう世論にまとめられて、あとからあとから山彦のように反響する。もう、キリないねん。凶悪事件いうてもほんまは一人一人事情がちがうんやけど、「死刑だぁー」っていう一つの音響としてひびいてくる世間にむかって、やっぱしこっち?もまた一つおぼえに「絶対ハンターイ」なんて云うだけやったら、まるで底のない大海の真中で投網をかけるようなことや。(まあ運動いうのはそういうもんやけど)それでは、ほんま、どうしようもない。それで、そんなやり方でない「やり方」いうのをいろいろ工夫し(たつもり)でやってはきたんやけど、あきまへんわ。

 最近じゃ「ひとのことはほっとけ、自分の考えをしゃべらんかい」と、テレビに向かって怒鳴るだけで、世間に向かってビラまいたり叫んだりするのは、もうくたびれ果ててしもた。

 で、結局、わたしは世論を説得する方法なんてもんは、ついに持ち合わせなんだのやけど、かといって反対に世論に説得されて、死刑廃止いうことをすっこめた――というような気持ではさらさらない。

    3

 わたしがこれまでやってきたようなことがはたして「運動」といえるかどうかわからんけど、それは世間や世論を説得するためというより、自分が納得するためのもんやったと、いまこのごろわたしはしきりに思う。

 正直いうて、わたしが死刑に反対なのは、国家が国民を、つまりわたしをいつでも合法的につかまえた上で「殺す」ことができるという制度やからや。(もっともそれがはっきりする例は冤罪でも処刑されるいうこと。それを国家はいままでしてきたんや)

 さきごろテレビの何かの討論番組で、パネラーたちが当然のこととして語る「人を殺してはいけない」という誰も納得してる論理に対して、聴衆の若者から「なぜ、人を殺したらいけないんですか」という質問が出た。それには並み居るパネラー全員がしばし唖然となり、しばらく沈黙してたそうや。そのあとの成行きがどうなったのかしらんけど、それ以来、オトナたちはそれにどう答えるべきかと、『文芸』(九八年五月発行)で特集が組まれたり、本になったりしてるらしいんや。

 わたしはそれらを読んでへんし、又聞きやから少し見当違いかもしれへんけど、人殺しいうのは、エエも悪いもない、どうしようもない事実としての結果〓結果に傍点〓やとしか云えん。なんで人を殺して悪いか? というたら「それが自分にふりかかることやったらどうするんや。他人事みたいな質問で済まされんやろ。殺すいうことは、殺されるいうことやで」と云いたい。死刑制度も同じや。

 その上で、わたしは国家いう機構が制度として行使する人殺し・殺人(その最たるものは戦争や)は、個人がやってしもた結果〓結果に傍点〓の殺人とはまるでまったく質がちがう、月とスッポンほどの別のことやと思てるねん。

 凶悪な事件に対して「死刑」は当り前やと思ったり主張する人に、では死刑で凶悪事件はすべて帳消しにするんか、と聞きたい。「死刑! これにて一件落着」ということにされてしまうだけで、あとはもう知らん、いうのが国家や。法律や。

 つまり、死刑は個人の正義、あるいは応報、復讐を解決するもんやない。国家の合法的殺人、戦争での徴兵と同じような、<わたし>に対しての問題やということが、そもそもの死刑制度の根本問題なんやねん。

    4

 「処刑」は十数人の役人が立会い、いともおごそか?な形式にのっとって(それが合法いうことを証明する)、国家が国民に向って執行する殺人儀式や。

 その「殺人儀式」ゆえに(執行後に冤罪が判明しても)立合う誰かが責任をとるということは絶対ない。(免田栄さんは最後の裁判官によって無罪とされるまで、それまでの三〇数年間、七〇数人の裁判官から有罪死刑を宣告されつづけた。しかも、その誤判について

七〇数人の一人からも、ひと言だって謝罪や弁解がない)

 死刑制度は、そのような国家の殺人を、わたしらの日常社会が、当然のこととおもいこませられている制度や。

 もっと本質的な意味でいえば、それは平時日常において、国家が国民に対して、布告なしで宣戦していることなんや。いつでも国家が殺す存在としてわたしらはある〓あるに傍点〓ということなんやんか。

 その上で、例えばまえの戦争のとき、「討ちてし止まん」とか「鬼畜米英」とかが世論として宣伝されたように、死刑もまた新法務大臣が必ず口にする「国民感情」とやらを逆手にとって、国民の側からの声として執行される。

 しかし一体、この世論とは何や。わたしもまた国民の一人やとすれば、すくなくともわたしの声ではない。わたしにとっては国家の声や。しかもわたしを取り囲んで、「おのれ非国民!」「おまえみたいな奴は、みな死刑や!」と騒ぎかねないファナティシズムにおいて国家と一体になっている国民の声や。

 それで思い出すけど、ひところ、反原発や反天皇や死刑廃止をテーマにして集会をよおやってたんやけど、その集まりの案内を新聞に出したりすると、反原発や反戦ではそんなことないのに、反天皇と死刑廃止は、必ず匿名の卑しい文面のハガキとかイヤガラセ電話がくるんや。大阪の集会やのに、新潟からわざわざ電話かけてきたおばさんもおった。えらいこっちゃったで!

    5

 いや、もうほんまに支離滅裂で一体何を書いてるのやらわからんようになってしもた。わたしの云いたいことは、こんなグチ泣き事ではなかった。

 もともとわたしの「死刑反対」にリクツはなかったんや。「死刑はいやや」いうだけの単純なもんや。それが「死刑反対」といいだしてから、だんだんと警察というもの(常時尾行されるようになった)、裁判というもの(あんな馬鹿げた猿芝居はない)、そしてどんな人が「犯人」となっていくのか(めぐりあわせが悪いんや、みんなふつうの人やんか)、その「犯人」が入れらる監獄とは一体どんなところか(人権なんてカケラもない)、というようなことが一つ一つわかってきた。その結果として、どうしてもわたしらと「国家権力」という関係にぶち当たって、正面から考えんとアカンと思うようになったんや。

 つまり、国家権力とわたしらの関係の問題ぬきに、死刑廃止!をいうことは、まるで解熱剤的対症療法をやっているようなもんで、それはそれで必要やけど、根本的には一時のがれのごまかしやいう気がどうしてもしてきた。

 それで、だんだんとわたしは確信してしまったんやけど、要するに――

 「死刑」という制度は(わたしらの胸の奥深くに隠れとって)ふだんはめったなことでは表に出てこんけど、「応報・報復・復讐・憎悪」というような心理と、その裏返しの社会正義的国家というむしろ「うしろぐらい世論」によって支えられているんや。

 そして、それは、まるっきり国家の意図に乗ることで、その正義は保証されてるというわけや。

 世論が死刑を支持するのは、はじめから決まっとる。一方国家もまた死刑を(その支配を貫徹するみせしめの制度として)、簡単には手放さんことを世論によって保証されるというわけやんか。しかしこんなこと、死刑の問題の枝葉末節のことかもしれへん。

 或はわかりきってることやけど、世論などというものを超えた、もっと根本的問題があるんやないかというと、今さら改めてと多分いわれるやろけど、わたしとしては最後に、これだけはやっぱしどおしても云うときたい。

 例えばもう二〇年も前、獄中者へ本を差入れする「たんぽぽ図書館」というのをやってたときがある。そのつきあいで、出獄してきた党派セクトの人たちから呼びかけられ、いまの“かたつむりの会”の前身、「死刑廃止関西連絡センター」をいっしょにやり出すことになった。ところが、数年のうちに、いつのまにか党派の人たちは何となく抜けていって、残ったのはわたしらだけや。そしてその経過の中で、何よりはっきりしてきたことは――。

 党派の人にとって、いまのブルジョワ政治体制が続くかぎり死刑反対。けど、自分らが権力をとった暁、反革命分子の一掃のため、革命政府維持のため死刑は必要であるかもしれへん――ということなんや。

 これは、いま地球上に存在するすべての国家・政府政党が、死刑廃止に対して結果として執る同種同根の「国家」イデオロギーの問題や。

 ということは、死刑制度は、ざっくばらんにいうたら、国家そのものの存在とわたし(たち)との関係の具体的抽象性としてつき出されている。そやから、死刑制度は、わたしにとっては天皇制と同様に、そのことが国家制度の存否とむすびついた意味の問題、というしかないもんや、というしかない!

 と、こんなこと云うたら、ますます誰も寄ってけえへんやろ。それで、わたしは結局、その死刑廃止運動のまわりのそのときどきで(オウムのサリンや和歌山のカレー事件とかかわりなく)ただ廃止廃止いうて、例えば「ハラハラ大集会」とか「反日ヤジ馬大博覧会千人集会」などなど野次馬してきたというわけや。「世論」なんてクソクラエ!