「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 30号

  • 「桃断ち」の日
  • 国賠・十二年目の判決
  • 野枝とルイさん

棚から「伊藤野枝全集」(学芸書林)をとり出して「動揺」とか「乞食の名誉」、それから「青山菊栄様へ」などを読んでみた。たったこれだけ読んでみただけでも、野枝はすごく自分に正直で相手が誰であろうと実感でしゃべってると思う。たとえば野上弥生子が野枝を大杉の可愛い妻にすぎないと批評して「あの人の社会主義かぶれなぞ、私の信じるところが間違っていなければ、百姓の妻が夫について畑に出る同程度のものに過ぎないと思います……」なんて言ってるね。これを聞いて「野枝のほうが女としてずっと深く本質的で、先をいってると思った。自分のおもいから離れた「社会主義」なんてクソ喰らえ。野枝は社会主義やのうて「アナキズム」なんや。大きなお世話や。わたしは断然、野枝の方の肩もつな。

 

それからわたしは、野枝と大杉の四女、故伊藤ルイさんとは「東アジア反日武装」の大道寺将司さん、益永利明さん(共に死刑確定)との獄中獄外の交通権を争った、いわゆる「Tシャツ裁判」訴訟で共同原告や。公判の度に出会って、そのときどきルイさんから「野枝さん」についての話を聞いた。

「野枝ってね 日雇いの仕事で夜遅く帰ってくる母親のごはんまで先に全部食べてしまう人だったのよ……」この話を聞いたとき、なんという奴っちゃとわたしも思った。ルイさんは彼女を育ててくれたおばぁちゃんが大好きだった。だからそんなひとのことを考えず自分を好きに生きようとする野枝を(ルイさんの前半生の地道な生き方とくらべて)あまり好きでないようやった。しかし大杉のところで「女中さん」をしていたという人を80年ごろ奈良だったかの病院に訪ねていったら、そのひと「大杉さんより野枝さんの方が大物やった」と言うたんやて。

このひとのことなんかなあ。近藤憲二の「無政府主義者の回想」に出てくるんやけど、大杉の家では、朝の挨拶だとか玄関の送り迎えというようなことはきらってせんかったらしいけど、ある日 女中さんが大杉の帰ってきたのをお客と間違えて玄関に出た。すると大杉だったので「なーんだ 旦那さんか」といって、障子をピタッとしめたというんや。この女中さん自分の部屋に居候もおいてたんやそうな。なんだかのびのび「女中さん」してたひとみたいで、これは野枝さんというひとがよっぽどのびのびしてたからやろ。

そしてルイさんも「大杉みたいな男が目の前にあらわれたら、わたしも魅かれたと思う」なんていって大杉贔屓やったけど、そのあたりから野枝のほうにだんだん関心をよせるようになった。しまいに、自分が野枝みたいになってきたなァと今になってわたしは思うんや。

晩年、ルイさんは好き嫌いを率直におもてにだすようになった。「わたしもそれでたしなめられるんや」っていうたら、ルイさん「あら 女が好き嫌いが激しいのは当然よ。だって女は選ぶ性なんやから」ってアッサリ。わたしは「なーるほど」といっぺんに納得したけど。しかし、ルイさんは50歳くらいまでの生活というのは、好き嫌いなんて全く表に出さない・しない生き方をしてきた人やった。それが野枝さんの自由をだんだん知って、ルイさんも自由になっていったんやと思う。

知合いになった75年頃「わたしは大杉、野枝という人はいても、それが親という実感は、はじめから今もないの……」とよくいってたけど、「大杉・野枝の死体検案書」というのがその後発見・発表された時のルイさんのショックは、わたしらとまるでちがってた。ネストルを産んで一カ月も経たない野枝の膣内部の発赤が記入されていたんや。ルイさんはそれを読んでおもわず「お母さん!」ってことばが口をついて出てきたって言った。はじめて「野枝さん」を「お母さん」と呼んだんや。どんなにか身のふるえるような思いやったやろ。「親の敵を討つ」ーなんてものではないけど、なんやルイさんのその後の動きをみると、すごみというか迫力が出てきたもんね。

それから大杉の翻訳手伝いなどしていた神戸のアナキストで野枝とも親しい「安谷寛一」というひとがおるんやけど、この人、だいぶ口が悪くてたいがいのひとにケチをつけたり、こいつはナニナニやとかいうてる。それが一つ年上の野枝のことを「野枝さま」なんて呼んで全く悪口いってないのがおもしろい。それどころか大杉がしばらく留守になると、労働運動社で野枝と若い連中の関係がギクシャクするので、それをコボす村木源次郎に、安谷は「おれは野枝さまの足でも洗う」なんて言うてまるで野枝党なんや。

震災で焼け出された袋一平一家が柏木の大杉の家に避難してきたいた時、他にもごちゃごちゃいてその中の一人が「革命というのはこんな時にやるんじゃないか」といった。そしたら「どさくさまぎれにどたどたやるのが革命じゃないんだ。多くの人が家もなければ食う物もないといって右往左往しているときに変なことをして困ってる人をなお困らせることができるか!」と大杉がどなったということやけど、安谷は「野枝はそうでもなかったらしい。二人のちがいはちがいとして、ずっと続いていた」と書いてる。

野枝のことがついルイさんのことになってしもた。この二人は「早死に」と「おそ咲き」の両極端はあっても、二人とも自分を自分として全うしたひとやったなァとつくづく思う。そしてわたしの中では、いつのまにか重なりあわさって一人のようにつながってしまうんや。

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