「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 38号

  • 8月6日 朝・・・

おいちゃんが死んじゃった。

いま、真夜中の十二時過ぎ……

この時間になると隣りの神社の砂場に、うちの猫たちがしたうんちをとりに行く。猫たちもいっせいについてくる。で、しばらく猫の散歩で家の前を行ったり、来たり。おいちゃんがすぐ前の部屋で机に向かってるのが簾ごしに見える。でも、そこにおいちゃんの姿が見えんようになって、今日で二〇日……。

 ほんまに、おいちゃんは死んでしもたんやな。もう「ふう子さーん」いうてくれへんねんな。なんぼ泣いてもどこにもおれへん。

「葬式は誰にも知らさんと身内だけですます」みんなへの通知は「半年後にでも」いうのがおいちゃんの希望やったけど、おていさんと惠子さんと中島君とそれに名古屋の大竹君にすぐ電話してしまった。なんだかもうかなり知れ渡ってるみたいで、電話がようけかかってくる。名古屋の仲間も心配して毎日きてくれた。そやのにわたしは電話にも出ず、一人になりたいからゆうて家に篭りっきりで、泣いてばかりいる。

でも、中島くんや大竹くんが「半年後にでも」なんてもう無理やいうし、簡単においちゃんのことのおしらせを書きます。遺言ノートに「通知は半年後適当に(やむなくば一ヶ月後)」と書いてあったから。

 

 向井さんが死んだのは八月六日。

夜中一時過ぎ、猫の散歩が終わって、おいちゃんの血圧を計ったら、上が237で下が87やった。いつも原稿かきだすとあがってくる。

「おいちゃん、また血圧あがってるよ。原稿書くのもうやめとき」

「締切り過ぎてんのに……」

「そやからいうたやろ。たのまれ原稿はもう引きうけたらアカンいうて…」

 「いや、これは自分の意志でかいてるんや」いうて頑としていうこときけへん。

 ひもりさんが来てたころは毎晩二人で一升あけてたけど、ひもりさんが死んでおいちゃんすっかり元気なくして、二合も飲むとすぐ酔ってた。このところ食欲はゼロ。桃を食べたときだけ「おいしい」いうとった。

 最期の桃になってしまったけど、ちょうど神戸の高島みよこさんから送られてきた桃を剥いて出したら、「おいしい」いうて食べたんや。それが一時半すぎかな。

「ほな、おいちゃん、わたし寝るね」いうていつものように手をふると、こっちを見て「うん、寝なさい」いうて、また原稿にむかった。おいちゃんは夜型やから、これから仕事するおいちゃんに「寝るね」と声をかけると、いつの頃からか握手して「はい、さよなら」いうねん。でも、この日はおいちゃん「はい、さよなら」は云うてないよ。

 

朝、いつもだとわたしは八時ころには起きるんやけど、この日起き出したのが九時まえやった。おいちゃんの寝てる部屋に降りていくと、ベッドの上の電気が煌煌とついたままや。読みかけの朝刊が下に落ちてる。電気を消そうと思って近付くと、メガネをしたままうつ伏せになってる。痛いやろと思って、メガネをはずそうとそっと両手で顔を横向けにしたら、唇が紫色にふくれてゆがんでるんや。「あっ」と思って、鼻に手をやると息してないやんか。

「おいちゃん、おいちゃん」「おいちゃーん」いうて叫んだけど、なんぼ叫んでも目えさまさへん。

すぐ救急車に電話した。なんぼしてもけえへん。やっと来ておいちゃんの目と脈をみて「もう瞳孔がひらいています。心臓もとまっています」「規則ですから一応警察にも連絡します」いうて警察に電話するんや。「かかりつけの医者はいますか」いうのであわてて村上医院に電話するとすぐきてくれた。おいちゃんは、「死亡診断書をかいてもらうためだけにかかってる」いうてたけど、村上さんは「わたしの患者です。警察にはわたしません」「死亡原因は心筋梗塞。死亡時間九時七分」いうて、その役目をちゃんとはたしてくれはった。おばあちゃんのときもやっぱり心筋梗塞やったけど、かかりつけの医者がいなくて、警察の検死に回されて解剖されてしまったんや。そのことがあったから、おいちゃんは村上さんにかかって、血圧の薬をもらってたんや。

救急車と医者が帰って、二人だけになると、おいちゃんはもういつものやさしい顔にもどって、ほんまに寝てるようや。まだ手も足も体も温いし柔らかい。死んだなんてとても思えへん。ベッドにあがって、おいちゃんに添い寝した。頬に手をあてた。髪をなでた。目に唇にキスした。わたしの涙がおいちゃんの目に落ちた。おいちゃんも泣いてるの?「おいちゃん、おいちゃん」「ほんまに死んでしもたん」「おいちゃん、おいちゃん」……いうてこどもみたいにいつまでも泣いていた。

こんな日がいつか来るいうことは、常々おいちゃんから聞かされとったけど、「いつかは…」と思ってても、それが「今日のきょう」とは思わへんし、なんやかんやいうても、おいちゃんはずつと生きてるもんと思ってた。

でも、この一、二ヶ月、とくにこの三週間ほどは、おいちゃんほんまにしんどそうやった。「あんたいつから看護婦になったんや」いわれるくらいしょっちゅう血圧をはかってた。原稿かくと上が250とかにもなるけど、しんどそうやなあ、とおもって計ってみると上が65で下が43だったりするんや。こういう状態がしばしばで「病院にいこ」というと「死んでも行かん」というばかり。いつかもいまにも死にそうに思って医者を呼ぼうとしたら、強い調子で「呼ぶな!医者はいらん」とおこった。

おいちゃんは日頃から「じぶんがうまれた頃の医療以上のことはせん」いう主義やった。「もう歳やないか」「充分生きすぎた」いうねん。

そして、だいぶまえから「もうそろそろや」ばっかり。「おいちゃん、お願いやから死なんとって」というと

「なんぼふう子さんの頼みでもそればっかりはきかれんわ。いままでの人類で死なんもんがおったか」「ぼくは、いまふう子さんだけのために生きてるんやで」

「ほな、わたしのためにあと十年生きとって」

「そんな無茶な。」

「わたしがひとりになってもええんか」

「よっしゃ。死ぬまで生きとるから」いうて……。

でも、ほんまにおいちゃん死ぬまで生きとったなあ。いつものように普段どおり朝まで原稿かいて、新聞読んで、「さあ寝よ」いうて、あっちに行ってしもた。

 

一九二〇年生まれ。享年八三歳。

 

おいちゃんはなんでもまず「段取り」やったけど、自分の葬式も残ったもんにあんまり世話かけんように互助会にはいって、一番安いのを前金で払ってあった。「死んだらここに電話するように」いうて、わたしにいろいろ段取りを教えてくれてた。そやから、それは段取りどおりに葬儀屋に電話したけど、わたしはうわの空で、すぐに駆けつけてくれた中島くんが、葬儀屋とのあれこれをやってくれた。

それから、先月の二十九日、ちょうどおいちゃんが死ぬ一週間前や。東京から泊りがけで、かすみちゃんとナリタくんが犬山に遊びにきた。二人は二〇代のパンクスで、なんやしらんけど、「黒」や「風」の読者で「暴力論ノート」を二〇冊近くも買うて友達に売ってくれたりしてて、この日は「暴力論ノート」をめぐって二人で対話したのを自分らで出してるファンジン(ミニコミのこと)に載せるからいうて、その文章を拡大印刷してもってきた。

それから帰り際に「BEYOND THE SCREAMS」いう、アメリカのチカーノたちのパンク・バンド、ロス・クルードスらのドキュメンタリー・ビデオをみせてくれたんや。おいちゃんはちょっと疲れてベットに横になってたんやけど、だんだん身をおこしてきて、「久しぶりにええもんを観た」「パンクいうのはただうるさいだけのもんやと思ってたけど、これはすごい。アナーキーそのものやんか」いうて、ごっつ喜んで、「これぼくの葬式に、坊主がお経をあげてる最中に流してくれ」いうんや。「よっしゃ、これでおいちゃんの葬式のスタイルが決まった」いうてみんなで大笑いやった。

この話しを聞いてた名古屋のはなちゃんが、七日、通夜の日ほんまにビデオとテレビを会場にもちこんで、葬儀屋に「お経の最中にビデオを流したい」と言ってるのを横にいた中島くんが、あわてて「お経がすんでからやりますから」いうて。それで、おいちゃんの望みどおりではなかったけど、ちゃんとロス・クルードスのビデオを一番大きな音で流したよ。おいちゃんは、ハプニングが好きやったから、さぞかし喜んだやろ。

告別式が終わって、おいちゃんの棺をみんなでかついで出発するとき、はなちゃんとバーバラが革命歌を歌った。大竹くんは棺にかけてあったWRIの文字のあるあちこちほつれのある黒旗を傘にゆわえつけた。ちょっとしたデモみたいやった。みんな泣いてた。

身内だけいうことになってたのに、突然へんな?(坊主が後で劇団の人たちですかいうて聞いてた)七人の若者が現れて、親族はびっくりしたみたいやけど、彼らは向井さんの最晩年に現れたイラク反戦で知り合った、このごろしょちゅう犬山にきてくれる名古屋の二〇代三〇代の仲間たちや。みんな向井さんが好きやった。自分らで大きな鍋を持ち込んで、素麺を茹でて……そんなときはおいちゃん、うれしそうに一杯やりながら、よくしゃべってた。

彼らが大阪の十三階の引越しも手伝ってくれたし、合財袋つくりも手伝ってくれたんや。捨てるに忍びんかった向井さんの、この六十年やってきた集積ともいえる紙屑?を最晩年に知り合った若い仲間たち(秋田からも東京からもきてくれた)の手によって袋詰され、さらに新しい仲間たちの手に渡ることで、紙屑が屑でなくなった……(この合財大袋は四〇個つくって、すぐに売りきれた)

おいちゃんの

「向井孝です。

アナキズム合財袋に関係したみなさん&購読者へ

 

ずっと部屋の半分近くを埋めていた合財袋を昨日ともかくすっかり渡してしまって、いま急にあっけらかんとした部屋の真ん中にヤレヤレと座っています。

そして思い返せば六〇年。ぼくの生涯の半ばを占めてきた、なんというかゴタゴタで、いろいろなことと行動、あるいは生き方としか云いようのないものの、一切合財が突然消えてしまったような思いもなくはありません。

合財袋についてですが、中島くんがまとめてくれた「非暴力直接行動」「イオム」の主要内容の目次一覧表は、ゴタゴタに詰めた一切合財のそれぞれを見てくださるときの「案内」にもなっています。まずそれを見て、なんらか活用してくださることがあれば、うれしいです。

ともかく、ほっとしてこれからまたボチボチ、書き残したものを「黒」などに書けるか、もう書けぬかというような思いで、みなさんごきげんようのご挨拶を久方ぶりに送ります。」

というメールが残ってるけど、ほんまにおいちゃん、なにもかにも片付けて、段取りをしすぎたんや。

それに、おいちゃんこの作業にほとほとくたびれた。

 

おいちゃんが最期に書いてた原稿は、「新日本文学」からたのまれたもの。「新日文」はこんど廃刊にするんやて。それで?アナキズム特集を組むから向井さんにも書いていわれて引きうけた原稿やった。はじめお断りのハガキを出したんやけど、鎌田慧さんから電話があって断れず「もうだいぶタダで本もろてたし、これもギリや」いうて。

でも、体調悪いし「もういまさら新しいこと書くことないなあ」いうて、なかなか進まんかったけど、それこそ最後の力を振り絞るようにして机にむかってた。締切りが過ぎてて、おいちゃんだけ待ってもろてたんや。おいちゃんはもともとさっと書くほうやない。「ないもんを振り絞って書いてるんや」いうてたけど、なんべんもなんべんも書き直して、ようやっと書き上げる。

六日の朝も書き上げた四枚ほどの原稿が、わたしのパソコンの机においてあった。一枚や二枚のときもある。おいちゃんがお昼頃起きてくるまでに、まえの続きにパソコンに打って、印刷しとくいうのが日課やった。(その日課が突然なくなった……)

おいちゃんが長年出してた「イオム通信」のイオムいうのは、エスペラント語で「ちょっとだけ」いう意味やけど、その「ちょっとだけ」にいつでもおいちゃんは渾身の力をそそいだ。

▲ おいちゃん「アナキズム」ってどういうこと……

  •  そうやなァ、ぼくについて云えば、アナキズムっていうのはそういうふうに改まって聞くもんでなくて、例えばある時「アッ」と思い当たったり「ははーん」と感じて、本などもちょっと読んだりしながら、自分でいつしらずの間に納得してる、というようなものや。……「アナキストには「なる」のではなく、いつのまにかアナになってしまってるのに、あるときふと「気付く」ということや……

というような書き出しで始まってるその「表現・発散・解放としてのアナキズム」という題の原稿は、もうあとちょっとやった。最後のとこを読みたかった。でも、おいちゃんは日頃から「これでやるべきことは全部やった、いうて人は死なれへん。いつでもやりかけのまま途中で死ぬもんや」いうてたから、原稿が途中でも「過程に粉塵す」るおいちゃんは「これも運命や」いうてるやろ。発表した原稿もいつでも末尾に「未完的完了」やし。

 

 それから、これも締切りがすぎた七月六日に送ったおいちゃんの原稿「逢瀬?の日」が、「沓谷だより」に掲載されて、おいちゃんの死後に送られてきた。

 これはおいちゃんがいつの頃からか、かならず行くことにしている「何かまるで恋人との逢瀬のように?そっと、待ちこがれている日」――一月二四日の「大逆事件の真相をあきらかにする会」、九月十五日の名古屋・日泰寺の「橘宗一の墓前祭」、九月一六日の静岡・沓谷霊園の「大杉栄・野枝、宗一追悼」――へのおいちゃんの想いが綴ってある。

 もうすぐ九月。おいちゃんは今年はいくつもりでいた。わたしといっしょに行くつもりにしてたんや。それに今年は一六日の次の一七日に伊豆天城の久板卯之助卯之助の墓の前で一杯やる集まりも計画してた。おととし行ったときお墓が見つけられなくて、去年草むらのなかから見つけ出し、今年は、墓がうもれんように、ちょっと整地したんで、村の人に配るパンフをつくって、帰りは湯ヶ島温泉に一泊の予定やったんや。(パンフ同封します)一七日までには、そのパンフを何人かの人たちに郵送せなあかん……

 おいちゃんは、最後にこう書いて結んでる。

「おもえば幾星霜、いつしかぼくも齢を重ねつつ、ふとまわりをみまわせば、そこでかならず出会う方々がひとりふたり年ごとにお姿を見かけなくなっていく。

 このぼくにしても、毎年一月と九月の来年に、果たして出席できるかどうか。そのあまりにも約束し難いこよなさゆえに、ぼくにとってはいっそう切なく、その日が、ただしきりに待ちこがれる逢瀬の日なのである。」

 

 おいちゃんはほんまに「こよない」いう言葉が好きやったなあ。おいちゃんがいなくなってはじめて「こよない」いう言葉の意味がわかるよ。おいちゃんがいることがあたりまえの、なんでもないその日常のすみずみにおいちゃんの気配があって、声があって、匂いがあって、振り返ってこっちを心配げにみてる顔があって、笑ってる顔があって、いつも二人して手をつないで歩いた道があって、その日々がわたしにとって、どんなにこよないもんであったか……そのこよなさが、いまはつのるばかりで涙がとめどもなく流れてくる……おいちゃんとの日常がわたしにとってもっとも大切な至上のもんやった。それが生きるよろこびであり、たのしみであり、面白さやった。おいちゃんがこよなさそのものやった。大好きなおいちゃん、これからもわたしの側から離れんとってね。これからもずっと「ふう&こう」やで。

おいちゃーん。おいちゃんーん。おいちゃーん。