「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 40号

 

  • 二人の追悼のために
  • 手紙がわりに

このところ、毎日のように一通か二通の振込み千円の通知がきてる。みんな「暴力論ノート」の注文や。知らない人ばかりなんやけど、いま、若い人の間で酒井隆史さんの『暴力の哲学』(河出書房新社)――「ボーテツ」とつづめて言われているらしいけど――いうのがよく読まれていて、そのなかに向井さんの「暴力論ノート」が紹介されているんや。

 「暴力・非暴力の区分の手前で、直接行動についてきちんと考えなければならない……これについてのとりわけ重要なテキストにアナーキストの向井孝による『暴力論ノート』があります。小さいけれどもまちがいなく名著です」とある。

 そして、「情況」一〇月号の特集が「暴力の哲学」で、その座談会でも酒井さんは「……向井孝がすごいと思うのは、ふつう非暴力行動の実践家や理論家には宗教家が多いじゃない? ガンディーにしてもキングにしても。世俗のひとがここまでするどく理論化しているというのは、そうないと思うんだよね。ここまでバランスよく、宗教的モラルで暴力の問題を忌避せずに、非暴力を追求した人はあまりいない」なんて云うてはる。

同じ座談会にも出てる道場親信さんは、「現代思想」五月号(青土社)のアナーキズム特集で「運動論的運動者――向井孝小論」を発表してる。振込用紙にはなんにも書いてないけど、そんなんを読んだあたらしい読者が注文をしてくれるんやと思う。

 向井さんは六十年代の半ばごろから「非暴力直接行動」を意識的に云ったり書いたりしてきた。その当時から、そしてわたしが向井さんと暮らすようになったこの三十年間ずーっと、向井さんの「非暴力直接行動」は理解されるというより、むしろ反感をもたれ、無視され続けてきたという印象の方がつよい。

 向井さんが書いたいくつもの「暴力論ノート」を読むと、その時々その時代その状況のなかで書いているから、同じものはひとつもない。最後になった二〇〇二年の十二月に出した「新訂版・暴力論ノート」がいまの若い人たちに読まれることになったんやけど、これは二〇〇二年の三月三〇日、日比谷公園で焼身死を遂げたひもりさんの死の意味を受けとめるために、最後の力を振り絞って書いたものなんや。

 先週『ECDiary』(レディメイド・インターナショナル)いう本を送ってもらった。中島くんによると、この本を書いたECDさんいうのは、サウンドデモにも参加してるラッパーで、いまは大きな会社からはなれて、パンクのことばでいえばDIYで活動してるひとらしい。この本の一二〇ページをひらくと、「暴力論ノート」が一ページ使って写真入りで載っててびっくりした。

 向井さん、書いてるときは「この年になってこんなもん書くもんやないなあ……」いうてたけど、もう一年だけでも生きとったらよかったのに、としきりに思う。

  • 「黒」最終号(特集・向井孝)の発行年月日は二〇〇四年六月六日。前号の「風」(三月三〇日発行)で、「日はまだきまってないけどデモをやろうという計画がもちあがってる」ってかいたけど、それが六月六日に決定。その日付を発行日としたんや。そして六日は向井さんの月命日や。

 DISCHRGE YOUR ANGER!!! 怒りを吐き出せ!!! と銘打ってのそのデモは、まさに向井さんの遺稿になった「表現・発散・解放としてのアナキズム」を可視化したようなもんやった。

 六日はまえの晩から夜中も雨が降っていて、朝もまだ降っていた。出かける前に向井さんのお墓に寄って、雨のこと頼んだ。

 サウンド・デモいうのは、いままで東京・大阪・京都ではやられてるけど、名古屋でははじめて。トラックの荷台に音楽機材を積み込んで、DJが操作して、テクノを大音響で噴出するんや。この日は一八歳と二〇歳の若者がDJを引き受けてくれた。雨が降ったら機材が駄目になるからなんとしても雨にはやんでもらわんと困るんや。

 そしてデモ出発の二時、それまで降っていた雨が、ピタッとやんだ。ドーンという地響きのような、からだの芯を揺らすような音がして、「殺すなー」という絶叫を合図に「ウオーッ」と、デモ出発。それまでの名古屋のデモの八割は五〇代以上いう感じやけど、この日は九割がTシャツ姿の(それも黒の)二〇代三〇代。申請は百人にしたけど、それをちょっと超えるくらいはいたかな。人数は、まあ、たいしたことないけど、はじめから熱気がちがう。テクノのドンツクドンツクドンツクいう心臓に直接響く大音響のリズムは、なんだかとっても心地いいんや。自然に体中が解放されるような、自在な気分になってくる。名古屋のこれまでのデモは四列縦隊に決まっていて、警察の規制の前に主催者も参加者もそれに従っておとなしく歩くだけやけど、この日はみんな自由自在や。一瞬、そこは解放区。

 なぜかデッカイ流木を肩に背負ってるもの。黒旗を空に突き上げて左右に大きく振りまわすもの。自前のプラカードをさげたもの。すっとんきょうな声をあげるもの。髪を針のようにたてて、わけのわからんかっこうしたもの。子どももいる。民族衣装を正装したアイヌの仲間。野宿の仲間。東京から大挙して応援にきてくれた戦争抵抗者の会の仲間。大阪からも京都からも。まあいろんなひとがきてるんや。そしてみんなてんでにうねりながら踊ってる。そして、「戦争やめろー」のシュプレヒコールが地響きをたてて前に後ろに渦巻く。

 道行く人は、まずこの大音響にびっくりして振り向き、立ち止まり、奇態な集団に目をまんまるくして見惚れて?る。なかにはデモの隊列に加わっていっしょに踊り出すものもいる。デモ隊の列には入いらないけど、顔をこちらに向けたままずっーといっしょについてくる五〇代くらいの女の人もいた。はじめ百人ちょっという感じが二百人くらいにふくれてきた。

 こうなると警察が黙っていない。制服警官がデモ隊横に隙間なくぴちっと一列に並び、私服刑事が歩道のあちこちに群れをなして眼を光らせ、歩道と車道を往ったり来たりしてるものを規制する。そしていままでの名古屋ピースネット主催のデモでは絶対に出てこない、警察の指揮車が前後二台ついていて、ベランダみたいになっている屋上から、指揮棒を振り回す隊長以下五、六人が、デモ隊を見下ろし、あれこれ支持して、警告をマイクでがなりたてるや。

 「安田佐知子さん(これ、わたしの戸籍名。デモ申請者がわたしになってるので)!デモの隊列は四~五列です。デモ隊を申請どおりにならばせてください」

 「デモの先頭で旗ざおを振り回してる人。すぐやめなさい」

 「安田佐知子さん!安田佐知子さん!もっと早く歩くように指示してください」

 「安田佐知子さん!警告します。先導の車の前にデモ隊がでています。これは違反です。すぐ引くように指示してください」

 「ご通行中のみなさま、ただいまデモ隊がたいへんご迷惑をおかけしています」

 ヤスダサチコ、ヤスダサチコとデモの間中いわれ続けたけど、なにしろテクノの大音量にかき消されて聞こえないんや。で、デモ隊の中からわたしを探し出して直接警告にくる。

 「隊列を申請どおりに並ばせてください!これは警告です」

 「もっと早く歩くように云ってください」

 「はいはい。はいはい」と返事はいたってええんやで。

 まあ、わたしが何をいったにせよ、このあふれんばかりの熱気とエネルギーに満ちた、この一瞬の時空間のアナーキーのほとばしりは、誰にも規制でけへんのや。

 東京の第三回目のサウンドデモで、時間をオーバーしたいうことで、終点間際、ダーと機動隊が襲いかかって、わたしの眼の前で指揮者が逮捕されるいうことがあったから、この日も時間がぎりぎりにせまってきて、ちょっとヒヤヒヤしたけど、逮捕者も出ず無事に終わってホッ。

 しっかし、このデモでのひとりひとりの発散・解放によって共有された高揚感いうものは、ちょっと書き表せへんなあ。一週間たっても一ヶ月たっても体に沁み込んだあのなんともいえない解放感がよみがえってくるんや。

       *

 もともと自分たちでデモをやろうと若いひとたちが思い立ったのは、この頃のデモが、行ってもちっともおもろないからやねん。警察に引率されて、きっちり四列になって、主催者がもつマイクのいうとおりのシュプレヒコールをか細ーく唱和して、ゾロゾロ歩くだけのデモは、元気がでるどころがかえって意気消沈して徒労感だけを増して帰ることになる。

 デモを呼びかけるビラには、かならず「このデモは非暴力で……」と書かれているんやけど、近頃、非暴力いうのは、合法とかルールを守ってとか、権力とは敵対しない、とかいう意味らしい。東京の大きな何万人も集めたりするナントカいうグループの人たちの一部は、警察とも協力関係をつくってデモをやろう、いうことで警察と食事を共にしたり、申請を三百人としたら、それを超えた参加者には歩道を歩いてもらうとか、四列を守らないと思われるグループにたいしてあらかじめ主催者が警察に規制をたのむとか、まあ、信じられんようなことが、「非暴力」を口にして行われてきたんや。

 それは、いままでの運動の負のイメージが、そうではない運動をめざす、いうことで非暴力がいわれてるんやけど、「あらかじめ権力と敵対しない」非暴力ってなんのことや。権力と仲良くする非暴力っていったいなんやそりゃあ。

  • ちょっと話が飛ぶように思うかもしれんけど、来年は「改憲阻止」が運動のメインテーマになるらしい。わたしは、いままでちゃんと「憲法」いうもんを読んだことなかったんやけど、知り合いから「詠唱日本国憲法」のCDがおくられてきて、はじめて読んでびっくりしたんや。

 前文

 1 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……

 と、いきなり釘を刺されてるんやな。

 九条や思想・信条・結社の自由いうのを学校で習って、誰でもそれは知ってるし、それは、憲法以前にわたしらにとってはあたりまえのことや。でも戦前の憲法には、思想・信条・結社の自由はなかった。そやから、「天皇を亡き者にしたい」と心で思うだけで死刑になった。それが新しい憲法では思うことは自由(実態はそうでもないけど)になった。でも、その思うことを表現する「行動」については、代表者を通じてしかできんのや。それでわたしらにあたえられた「行動」は一票の投票だけいうわけなんや。そやからなんぼ何十万人のデモ隊が国会をとりまいても、何千人の集会をひらいても、そのほかもろもろの表現「行動」をなんぼやっても「そもそも国政は、……その権力は国民の代表者がこれを行使」することになってるから、国会でいったん決めてしまえば、解釈しだいで九条があっても軍隊をもてるし、それを海外にも派兵できるという寸法や。

 いまどんな魂胆でどんな勢力が憲法を変えようとしているかを考えたら、わたしはその動きにはっきり反対の立場やけど、そして、わたしらはどうしようもなく国家に囚われて、この中で生きるより他ないとしても、国家いうもが、そもそもわたしらに敵対してるいうことだけは、わたしは肝に銘じてるんや。

 「やっぱりルールは守らんと」「交通の迷惑にならないように」いうて、デモを自分たちの側で規制する、「反権力」ということばがまるで禁句のような、いまの市民運動の一部にある権力とも仲良くする非暴力状況(正確には擬似非暴力状況)いうのは、すでに自分たち自身で「行動」する自由を放棄してるんや。

 個人にとってはあたりまえの、「思想・信条・行動の自由」というのは、そもそも国家に対して向けられたもんやんか。

 個人の思想・信条・表現・行動の自由を、なんで代表者を通じてするんや!

 この根元のところがすでに民主主義体制のもとに奪われている。それを一瞬一瞬取り戻すことこそが非暴力直接行動いうもんや、とわたしは思ってる。

  • デモ申請始末記

 初めてデモというものをしたのは十九歳のとき。ベトナム戦争反対のデモを、人口十万の米子の商店街を七、八人ほどでデモをした。しかし、公安条例なんてもんがあることもしらんから、デモをするのに警察に届けたり、許可を得たりしたおぼえはない。ま、もっとも七、八人ほどやから名古屋市公安条例の例でいくと、そんな必要もなかったやろ。

 六八年に京都国際会議というのがあって、米子から一人でかけていったとき、最終日に大きなデモがあった。京都の繁華街を道いっぱい(もちろん右車線も左車線も)にひろがってのフランスデモや。機動隊もいっぱいでてきてたけど、デモ隊の方が圧倒的に多い。もう街中を何千人何万人? のデモ隊でうめつくしたようやった。いつも七、八人ほどのデモしか経験のないわたしは、すごく感激して興奮したのを覚えてる。でも、このときは、誰がどんなデモ申請をしてたんやろ。

 六九年に東京にでてきて、デモがあるというと出かけていってたけど、盾を持った重装備の機動隊にことごとく行く手をはばまれたり、囲まれたり、催涙ガスで目が開けていられなかったり……機動隊に殴られて頭から血を流してる人もいた。いまでも、号令一つ、無表情な鎧兜(よろいかぶと)の機動隊が盾を持ってドタドタ走る不気味な音を思い出す。

 東京にいた六年間、幾度もデモにいったけど、べ平連主催やったり、共同行動やったりのそれに参加するというかたちやから、自分でデモ申請をしたことないし、そのことについて考えてみたこともなかった。

 七四年、大阪にきてから、反原発女グループや死刑廃止や東アジア反日武装戦線救援の虹の会で独自にデモをするようになって、デモの申請にいくようになった。これももうずいぶん前のことでほとんど覚えてないんやけど、なにしろ簡単やったようにしかおぼえてへん。もちろん一日で済んだ。警備もまあ、こちらはいつも十人二〇人最大で五〇人ほどの申請やし、女・こども・老人のデモやし、交通課のおまわりさんが十~二〇人?くらいついてくるというかんじや。(スリーマイル原発事故のとき、女たちだけのデモで、「おしめタイム」いうて、突然デモをストップして、ゴザしいて、いっせいにあかちゃんのおしめを取り替えたときは、おまわりさん困りはてて……おもろかったなあ。)

 でも、このときかて何列縦隊かを書かせられたとおもうんやけど、とんと記憶がない。

 というような多少経験のある、というわけで、今回の名古屋サウンドデモの申請に「付き添いでいくよ」って、気安く考えて手を挙げた。ところが……

 中署初日(五月一七日・月曜)。

 まず、玄関入り口正面の受付で「こんにちは。デモの申請にきました」いうて、七階の警備課に上がって行く。と、すぐ横の小部屋にとおされた。鈴木・永井、も一人計三人が応対に出てきた。鈴木はちょっと得体の知れない顔つきやけど、あと二人はまだ若く、まあふつうのおまわりさんってかんじ。

 「デモを企画するのは始めて」というと、親切そうに和やかな応対。いろいろ聞いてくるけど、まあ、適当にかわしながらこちらも様子を伺う。じゃあ書類にというまでにこ一時間かかる。

 A君が申請者。主催者・連絡責任者として申請書類に住所氏名を書く。それからデモの予定時間は、二時から四時。参加団体名称はLOVE and PEACE。「……その通過する路線」のとこは、こちらで地図を持って行ったけど、それを全部文字で書かなアカンのや。(そんな必要あんのかなあ?)デモコースが同じいうことで警備が「見本」として出してきたのが「名古屋ピース・ネット」主催のデモ申請書。それを見ながら、「会場南東出口出発東進~矢場交番北交差点横断右折何進~」というようにデモコースを書き写す。(これけっこうめんどくさい)

 問題はここから。

 予定人数――「百人」

 目的――「戦争やめろ」

 とここまではええんやけど、この書き写すという作業の続きのままに「示威運動の形態」のところで、「見本」どおりのまま、A君は「四列縦隊」と書き入れた。(わたしはせっかく付添い人で行ってるのにこのことにうっかり気付かないまま。)

 で、さあ、これで全部終わり、と思いきや……

 「荷台乗員の許可は交通課が出すんやけど、今聞いてきたら、荷台に人は乗せられないといってる」 「その許可がもらえないと申請の受理はできない」というんや。「ええっ!?」「じゃあ、交通課に直談判に行くよ」ということで警備につれられて、交通課に行く。わたしらを外で待たせてなにやらゴチョゴチョ相談してる。「課長がいないので帰ってくるまで待て」ということに。

 四〇分ほど待って、森川課長が帰ってきた。

 「デモで音楽機材を積み込むトラックと、その荷台に人が乗り込む許可申請というのは、許可を出したことがない。いままでにそれを許可した例は、伝統的なお祭以外ない。しかもそれも一人だけ」という。そこをなんとかと頑張ると「機材と人が座るための椅子が、しっかり固定されているかどうかが問題やから、それが確認できる図面を提出せよ」という。「じゃあ、さっそく図面を作って、持ってきますから」いうて、その日は帰った。

 まあ、図面さえ作ればあとは問題ない、しかし荷台に一人しか乗れないというのは困ったなあ……

 ところが翌日、中署からデモの内容について聞きたいという呼び出しがきた。

 次回には図面を提出して、申請書にA君の判子をつけば、もうそれでOKということやったのに。そして、警察の受付時間は六時までといってたのが、A君の勤めが終わってからでいいという。これは、あきらかに事情聴取や。こちらとしては、それに応じるつもりはなく、あくまでデモ申請に行くということで急きょ、図面を作成してくれたMっさんも加わって三人で出向く。

 この日、事情聴取に出てきたのは前日にはいなかった警備課長代理の安藤(なるほど公安の顔つき、態度)。前日に引き続いての永井、鈴木、他一名も居並ぶ。

 こちらが図面をもってきたから「申請の続きを」というのに、そのまえにききたいことがあるいうて一時間半くらいなんだかんだのやりとり。その挙句に、仕方ないという顔つきで安藤が「ざっくばらんにいきましょう」といって、おもむろに取り出して見せてきたのが、「怒りを吐き出せ6・6」のビラ。「これおたくらのビラでしょ」ときた。「ええ、まあ」……(ホームページからビラを印刷した日付は五月一二日とあった)

 東京・大阪・京都でのサウンドデモの情報をすでに聞き及んでいた上のほうからの指示によってのことやろう。

 ビラに書かれた、路上解放・直接行動・騒乱有理・一斗缶・車道で踊りだそう・爆音・そして共同企画としてならんでいる団体?名、特に大酒のみ旅団の下に線が引いてあって、それについて執拗にきいてくる。

 「騒乱有理って書いてあるけど、騒ぎを起こすことを目的にしてるのか?」

 「路上解放って、道路で何をしようとしてるのか」

 「直接行動いうのはどういう意味か」

 「一斗缶で何をするんや」

 「大酒飲み旅団って、デモしながら酒飲むのか」……

 とまあ、えらく執拗にきいてくる。そして県外からの参加者はどれくらいか、デモの沿道に呼びかけるのか、もし沿道から人が入ってくる場合、どうやってデモの許可条件を途中参加の者に徹底させるのか、それがあんたに出来るのか……ということを、かなり心配して(警備上)問い詰めてくる。

 結局、この日も、交通課がもういないということでデモ申請は受理されず、後日電話をするという。しかし、図面は渡したんやし、次回にはかならず申請を受理するようにいいおいて帰る。(火曜・夜七時~九時半)

 翌日の水曜、こちらから中署に電話する。「来週の水・木はこちらの都合が悪い、それ以後やと準備の関係もあるから、おそくとも火曜までには手続きをすませたい」。

 中署からは木曜にA君とこに電話があって、月曜の四時に行くことに返事したということやった。

 月曜午前中。

 「今日で全部終わりにしたいので、いいですね」と中署に念おしの電話をすると「自動車を運転するものの運転免許書のコピーと、車の車検証のコピーをもってくるように」という。A君とは昼間連絡がつかないし、車はレンタカーやし、まだ借りてもいない車の車検証なんかコピーできるわけない。それにそんなもんを提出する必要があるんやろか。

 ひと思案した末、東京の救援連絡センターに電話する。Bさんが対応に出てきて、いろいろ親切に話を聞いてくれた。「そんなもの出す必要はないと思うよ。当日になって運転者が変わるということもあるんだし」と教えてくれた。そして名古屋で相談に乗ってくれそうな弁護士を紹介してくれた。で、すぐにその弁護士に電話。しかし、「忙しいので」と断られてしまった。しかたが無いので中署に「弁護士に相談したら、そんなものを出す法的根拠はないはずだということですよ」というと、「ちょっと待ってくれ」という。しばらくすると「じゃあ、それはいいです。Aさんの判子だけ持ってきてください」となった。ほんまに警察いうとこは油断もスキもないわ。

 「A君と連絡がとれないから今日いけるかどうかわかりませんから」いうて、とりあえず電話を切る。

 A君と約束の四時半に中署前で三人と落ち合う。まだ車も確定できていないし、そのことでまた足を運ばされるから、今日はやめようと提案。でも、せっかく早引けして申請するつもりできていたA君は行くという。その気持ちを尊重して、MっさんとAくんの二人で申請に出向いた。

 しかし、またもや申請は受理されず。

 A君は新しく勤めを始めたばかりなのに、デモ申請のために一日休みをとり、三時間の早引けをとった。名前を出すということでは、それなりに彼は覚悟をしていた。でももうそれ以上会社をやすむことはできなかったし、おまけにというより、あろうことか、A君の会社への行き帰りに公安の尾行がつくようになって、電車のなかでも露骨ないやがらせをうけるようになったんや。それで、次からはわたしが申請者として中署にいくことにした。

 木曜に警察から電話があって、金曜にいくと返事をする。

 名古屋の市会議員で、さいとうまことさんという人がいる。ピース・ネットのデモではよく見かけるし、「黒」の読者でもある。六・六のビラを送る時に弁護士を紹介してもらえないやろか、とたのんでたら、木曜にさいとうさんの方から電話があった。明日三時、時間をつくって、いっしょに行って弁護士さんを紹介してくれるという。

 弁護士さんからは「名古屋にはここ一五年ほど、逮捕者がでるような運動がなかったので、弁護士にも運動の雰囲気というものはありません。運動はないのに、公安はもうなんでもあり、するの状況ですからね」「六月六日には事務所に出向いていますから、なにかあったら電話ください」といってもらった。OくんHちゃんも同行。

その夕刻(金曜・二八日)、Mっさんと中署に。

 中署の手前で「あっ、テープレコダー忘れた」と大声をだしたら、Mっさんが、「ダッシュします」いうて、大須までひとっ走りして買ってきてくれた。六時半。

 今日こそケリをつけてやる。

 場所は警備課ではなく交通課。申請書類は一応書き終えているので、のこっているのは荷台乗員の問題だけということで。

 だけど、そこには交通課の森川の他に警備課のいつもの永井、鈴木、あと新顔四人の計六人もいる。気味の悪い安藤はいなかったけど、このひとたちほんまに暇らしい。わたしらふたりのたかがデモ申に六人もや。

 Mっさん、まず机の上にテープを置く。

 わたし、まず、「こんなに何度も足を運ばせて、申請受理を拒否するようなら出るとこに出るから」と。すると「このまえの自転車デモ?では七回ほどきてもらってるし、あんたがたに特別いじわるしてるわけではないです」と平然とした顔つき。

 「とにかく荷台には二人の乗車が必要なんや。一人は機材の操作をするし、もう一人が機材が落ちないように見てなあかん。それが必要最小限の人数や」

 「弁護士さんに相談したら道路交通法では二人までいいといってる」すると森川課長はあちこちに赤線やら青線やらが引いてある「六法」を持ち出し一生懸命めくりながら、「どこにかいてある? 第何条ですか?」「必要最低限というなら二人と限定して書くのはおかしいです。必要なら三人でも四人でも必要となる場合もあるわけでしょ?」と真面目にいってくる。内心、それもそうやと思いながら「たしかに二人までOKと書いてあった気がする。でも、何条までとは覚えてないから、ちょっと弁護士に電話して聞いてくる」とわたしは席をたって電話しに。あいにく留守やった。「弁護士が留守で、あとで電話してもらうことにした」といいながら机の上にわざと見えるように弁護士さんの名刺をおいた。

 そして、「電話を待ってる間に申請書の方を書きます」いうて、わたしは改めて一から申請書を書き出したんやけど……

 (またデモコースを一からかくのが面倒やから、「A君の名前の上に線引いて訂正印をおしてそこだけ書き直したらええやんか」と主張したんやけど、アカンという。もし、「それでいい」ということやったら初日のうっかりに気付かんままやった)

 A君が書いたのをみながら、申請者の名前を私にして(戸籍名でないとアカンらしい?)、時間はそのまま、デモコースをやっと書いて、参加予定人数もそのまま、目的もそのまま……

 で、「示威運動の形態」のとこにきて、「示威集会及び四列……」と書きながら「あれぇー」と手が止まった。ここではじめて「四列というのはあくまで申請者が四列と申請した」という体裁を取ってるんや、ということに気がついたんや。一字一句を見張るように覗き込んでる警備課の面々に「最初から最後まで四列を崩さずに行進するなんて軍隊の隊列じゃあるまいし、子どもと手を繋ぎながらの人もいるやろし、後ろを振り返って話ししながらも歩くやろし、四列きっかりなんて無理や。四列~五列というふうに幅があるもんや」(四列~六列にしとけばよかった)というと、「通常四列というふうにしてもらってる」としつこく言ってくる。

 「これはあくまでこちらの申請やねんから。申請は自由なはずや。それを公安委員会が判断すればいいやんか」とつっぱねる。

 この間のやりとりを、憮然とした表情で見ていた森川課長が、唐突に「その理屈でいけばそちらの申請の自由ということで、荷台に乗せる人員も二人とかいていいことになります。じゃあ、ここに二人とかいてください」といってきたんや。

 ヤレヤレ、と思ってるとどこかに(たぶん上司のとこやろ)行ってた鈴木がもどってきて、いままでそれについては言わなかったのに、「行進の時間が二時~四時というのは長すぎる、これは一時間のデモコースだ。せめて一時間半にしろ」「四列~五列」を「四列に」と執拗にいってくる。「これはあくまでこっちの申請なんやから、不許可にするんやったらすればいい」とこちらも強気。

 六月四日金曜、デモ「許可証」をMっさんととりにいく。「許可証」を見ると、こちらの申請どおり「四列~五列」、時間も訂正なしの数字が書き込まれているやんか!

 そして問題の「荷台乗員」の「許可申請書」は、六月六日デモ当日に手渡されたけど、運転者が事実として間際まで決まらなかったし、レンタカーも当日にならんと車両の種類・ナンバーもわからんし、そこを空白のままで申請書を受け付けるいうことは前例のないこと、といってたけど、朝、森川課長に車両の種類・ナンバーを電話連絡することで成立。これも申請どおり「二人」で許可が下りた。「やったー!」

 結局、今回のデモ申請のことでは中署に五回も通うことになったんやけど、このことを通して思ったことは――

(一)一九四九(昭和二四)年につくられた「集団示威運動に関する条例」によると、

  • デモは予め公安委員会の許可を受けなければならない。〔但し五百人未満(名古屋市は五十人未満)・葬儀・祭礼・スポーツ競技等体育運動・学校官公庁が慣例として催す行事については、許可を要しない。〕
  • 申請は管轄する警察署長を経由して公安委員会にしなければならない。
  • 公安委員会は……これを許可しなければならない。

そして、

  • 公安委員会は、公共の安全又は公衆の権利を保護するために必要と認める場合には、……必要な条件を付することができる。

となっているんやけど、要するに〔デモは申請をしたら許可しなければならない〕、いうことや。そやのに申請の段階で警察が予め、その時間や形態に規制を加えてきて、警備をやりやすくするための指導をしてくる。

 名古屋ではいつごろからそうなったのかは知らないけど、警察の規制をそのままに受け入れ、申請者(自分たちの主体を主張せず)が指導どおりに、例えば「四列縦隊」と書き入れ、それが慣習化されてきたよう。

 警察官も「申請」という意味は、あくまで申請者に主体があることを忘れ(初めからないかも)、警察官が主導権を握って日常業務をこなしているわけや。特に若い警察官などは「親切に指導」してくる。五〇代半ばと思える森川課長にしても、あくまで法律を守ってやっているつもりなんや。いつもやっている警察にとって便利な事務手続きとして、「免許証のコピー・車検証のコピー」を要求してきながら、そんな法的根拠がないというと取り下げたし、彼の方から「二人とかけ」といってきた。

 東京のチャンスの一部の人たちが、「警察といっしょにやるデモ」とか「警察とご飯をいっしょにする」というようなことがあったけど、「親切に指導」してくれる警察官を、ほんとうに自分たちを守ってくれる存在と勘違いしてしまう経緯がわかったような気がした。

(二)デモ申請のことに限らず、警察もお役所なので、すべてが「細則」による日常業務として習慣化している。それがあたかも法律であるかのようにひとりひとりの警察官がわたしらに権限的に対応してくる。なにしろむこうにとってはあたりまえになってる日常業務手続を変えさせるのはたいへん。こちらもそれなりに準備して、調べておかないとやられる。

(三)これからデモ申請にいくときは、条例施行規則のなかに「様式」というのがのっているから、「日本工業規格A4」の用紙に様式を整えて、こちらであらかじめ必要事項を記入し、それを警察署に持っていけばいいと思う。そしたら経験がなくても誰でも出来るんちゃうか。

http://www.som.pref.aichi.jp/d1w_reiki/mokuji_bunya.html

第14編

警察、消防/第1章 警察

○行進又は集団示威運動に関する条例施行規則

(四)今回かろうじて「四列」を「四列~五列」と書き入れたけど、東京のサウンドデモに参加した時のことを考えたら、申請書にたとえ四列~七列と書き入れようが、もうぐじゃぐじゃに列は乱れることは必至。警察が規制してくるのは必定となる。しかし、こちらがそれを規制することはしたくない。まあ、その時はしかたがない「逮捕」「ガサ」を一応覚悟した。

 「許可条件」には「うずまき行進、蛇行進、またはことさらに隊列の巾を広げ、若しくは遅足行進、停滞、その他一般の交通に障害を及ぼすような形態にならないこと、と記されている。大阪からわざわざこちら側の「デモ守備」にきてくれたCさんに(法律事務所に勤めている)「ことさらってどういう意味」ときくと、「わざと、故意に」いうことやという。「そうか、自然にそうなったんなら、しかたないもんな」。

 そして東京の救援連絡センターからDさんにきてもらえたことは心強かった。Dさんの警察とのやりとりをみていると、さすが「プロ」というかんじやった。東京の「戦争抵抗者の会」の若い仲間たちもさすがデモ慣れていて頼もしいかぎりやった。

(五)A君に公安がついた――ということから、いっきょに「逮捕」「ガサ」の心配がでてきて、少なからず、みんなの気持ちを不安にしたり、緊張したりしたやろと思うけど、当日のデモはかえってその緊張感が、参加者ひとりひとりを主催者のような気持ちにして、デモを盛り上げ、規制をかわし、指揮者や誰かが逮捕されないようにみんなが配慮し、そのことでよけいにデモが一つのものとして一体感をつくりだしたんやないか。そのことからくる充実感・高揚感の共有。まさに「表現・発散・解放」としてのデモやった。そして、なにより音楽の力は大きかった。いままでの名古屋のデモやったら街行く人が参加したり、デモにずっとついてきたりなんてことはなかった。あーんと口をあけてびっくりしたように、めずらしそうに、うれしそうにみていた。

 ほんと、あとあとまで、ひとりひとりに「やったー」「おもろかった」という思いがのこったデモやった、と思う。(各地から6・6デモのホームページに、こんなおもろいデモ初めてというメールがたくさんよせられていた)

 しかし……

(六)号令で動く警察官は、初めてのことに対しては、どう対応していいかわからない。事実当日のまだ若い交通課のおまわりさんは、どう規制してよいやらオロオロとしているふうやった。でも次回からはキッチリと学習してくるのはまちがいない。東京でも一回目はデモ隊の遣り放題が、二回目、三回目になるに従い厳重な規制が行われて、逮捕者がでてる。

 同じことはやれない、やらない。これが非暴力直接行動のゲリラの鉄則。次回もサウンドデモをやるとしたら、どうしたらいいか。かなりの工夫が必要と思う。

 以上、長くなったけど、わたしの報告です。

                  二〇〇四年六月十九日

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