「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 46号

  • かくもなおすも恋のみちかな

私が向井孝さんといっしょになったのは一九七四年。いっしょになったいうても、なかば押しかけや。大阪阿倍野の六畳と四畳半きりの狭い文化住宅。そこに「サルートン」と小さい板切れがぶら下がってた。エスペラント語で「やあー、こんにちは」いう意味なんや。サルートンは向井さんの自宅兼アジトで、毎日いろんなひとが出入りしてた。そこへ私はミシンと冷蔵庫と布団を積み込んだ軽トラで、東京から越してきたんや。その時、私二七歳。向井さんは五四歳やった。

向井さんその頃はまだ勤め人で、毎朝十時すぎに出かけて行く。四時すぎには会社を終えて、帰りしなその日の人数分の買物をして帰ってきて、晩飯をつくってた。畳のうえにじかに炬燵板を敷いて、一杯やりながらみんなで夕食や。初めはほとんど料理も掃除もした記憶がないから、向井さんにしてみたら、私がきてもそれまで通りの毎日やったろ。

 ところが、五十五歳になった途端、向井さんは「定年や」いうて自分で仕事をやめてしもた。収入の当てもないのに、食べる以上は稼がん主義なんや。月末になって部屋代を心配せなあかん頃になると、向井さんどこかに出かけていく。昔ひとにようけ金貸してるからとりにいくんや、いうとったけど、私もただ飯ばかり食うてもおれんから、近くのうどん屋にアルバイトに行くようになった。

 向井さんは、そこから私が毎日もらってくるかまぼこ板で絵馬を作りだした。焼いてツヤをだした板に、「宇利乃奈歌馬野阿意故途葉喫点似之理於」なんて筆で書いた和紙を貼り付ける。縁日で売ろうとしたけど、外人がみやげ用に十枚買うてくれただけで、あとはさっぱりやった。

 「おいちゃん、これからさきどないしょう?」いうと、「どないかなるわい」いう。「どないかならんかったら、どうするの?」って訊くと「死んだらしまいや」いうんや。こりゃ、あかん。この手の相談は向井さんにしてもあきまへん。(でも、この「死んだらしまいや」は、いつのまにか、私の陀羅尼念仏にもなって、これを唱えるとえらく気が楽になる。)

 ちょっとさかのぼるけど、六九年、向井さんは姫路で「自由連合」を創刊。その後勤め先が大阪になって、北田辺に自由連合社の事務所をかまえるんや。カンパだけで泊まれるいうこともあって、全国から若者たちがようけ集まってきてた。でも「自連」は七三年に終刊号を出して区切りをつけたから、私がきた時分にはサルートンの出入りもだいぶ減ってた。

 それでも寺島珠雄さんは毎日来てたし、旧アナキスト連盟関西地協の仲間や、自連の若いもんや、なんやかんやとひとがきてた。それが、潮が引くようにだんだんこんようになってしもた。私のせいやねん。私がサルートンにくる男たちと片っ端からケンカするもんやさかいに……。向井さん何も云わんかったけど、内心寂しい思いをしたんやろなあ。で、それ以後は、だんだんおんなたちがサルートンの中心になって、向井さんの世界も一変した。

 七六年から、サルートンはウリ‐ジャパン(戦争抵抗者インター日本部)の事務所となった。ほどなく、ウリは機関紙「直接行動」創刊号を出す。やっと自分の原稿を書いて、それからは朝から晩までもらってきた中古のタイプでポトンポトンと打つ。表紙だけ印刷屋にたのんで、あとは何から何まで、ふたりで手作業や。印刷も製本もぜんぶやから、毎晩夜中二時三時までやっても終わらん。気づくとふたりとも半分寝てるんや。向井さんが表紙に折り線をつけて私に渡す。それを受けとって中味にかぶせる。そのスピードがだんだん落ちてきて、みるとふたりともコックリして手が止まってるんや。アッと思ってまた始める。その「コックリ」と「アッ」のふたりの呼吸がぴったりで、思わず顔を見合わせて笑った。「もう寝よか」。

 そんなある日、いまでも忘れん、十一月三日文化の日、朝七時半や。サルートンに二十数人ものポリがきた。天皇在位五十年式典に合わせて八種類のステッカーを作ったことが――令状には軽犯罪法被疑事件とあったけど――もうないはずの不敬罪に問われて、ガサがきたんや。向井さんは「直接行動」に「大逆事件の周辺で」を連載してたから、ドンドン、ドンドンと荒々しく戸を叩いて、いきなり入ってきて(サルートンは鍵をかけない)「令状や」「捜査する」といわれた日にゃ、ほんま、大逆事件の再来かと仰天したよ。

 向井さんは寝巻のユカタ姿で、ちゃぶ台のまえにキチンと坐って、「あんたたちも坐りなさい。まあ、お茶でも」「まず、その令状をみせなさい」と落着いたもんや。私はもう緊張と興奮と恐ろしさで、膝がガクガク。「令状みせへんねんな。ほな、もういっぺん見せへんいうてごらん。ちゃんと証拠にテープに入れとくから」いうてテープをセットする手が震えてる。窓をガラッとあけて、「近所のみなさーん、警察がドロボーにきてるんです。みにきてくださーい」いう声がうわずってる……。

 この事件以来、ふたりにはいつも私服の尾行がつくようになった。白山に旅行に行ったときかてそうや。せっかくふたりきりのランデブーやというのに、汽車に乗ったとたん、アレッ見た顔やなあ、思ったら大阪府警やんか――。ほんまに、家にいても、外にでかけても、私らはなかなかふたりきりになられへん。

 私が来てまもなく、だんだん手狭になって、向井さんはすぐとなりの旭荘にも三畳を借りて、空くたびに六畳をあと二部屋借りた。この頃になるとだいたい私が晩飯を作るようになってた。毎日六、七人分くらいは作ったかな。できあがると窓をあけて、太鼓をたたいて合図するんや。

 ベトナム反戦は終わって、運動全体は停滞してたけど、ここは連日千客万来。「〈自由連合〉紙をはじめた頃のように、これから何か新しいものを創り出そう……という空気の渦巻きが僕の周辺で次第にたかまってくるのを覚える」なんて向井さん「ウリニュース」にかいてるほどや。

 向井さんのそれまでの運動仲間は、ほとんど男たちやった。それが出入りの八割をおんなたちが占めるようになって、もうほんま、ワイワイガヤガヤ、ピーチクパーチク、箸がころんでも笑うてばかり。「あそこは向井のハーレムや」「おんなグループいうても後で男が指令してるんや」なんて陰口をいわれたけど、主役はあくまでおんなたちや。とはいえ、事実向井さんはいつでも傍にいて、私らといっしょやった。

 晩飯食べながら、向井さんはいろんな話をするんやけど、しかし、アナキズムについてとか、天下国家の情勢とか、そんな話はきいたことなかったなあ。なにしろアナボル論争を「アナボールってどんなん」って尋ねるし、総理大臣の名前も知らんし、人前でも大声で泣くし……。向井さんは私のあまりのアホに天地がひっくり返ったいうとった。でも、そのアホがええ、そのアホなとこがねうちやいうねん。そうか、このアホをこそ武器にしたらええんやな。というわけで、アホなおんなたちと向井さんとで繰り出す、過激派ならぬ歌劇舞踏派の出現はいつのまにか大阪名物になって、その名は全国(ホンマ?)にまで知れ渡ったんや。そんな賑わいのなかで、おんなたちは自分自身で自由に動き回るようになって、人前で一言も口がきけんかったような私が、マイクもってデモでも集会でもしゃべるようになったんやから。

 それにしても、毎日毎日ひとがきてて、何かのニュースをつくり、ビラをつくり、印刷し、集会をし、横断幕やプラカードを描き……それがそのままふたりの日常生活で、それがたいへんやったり、楽しいことやったりするわけやけど、そのなかでどうやってふたりはふたりになってたんやろ?

 向井さんは、「行動するときは軽薄になんでもやったらええんや。そやけど、やった後、やったことの意味をきちんと書くことで初めてやったことになるんや」いうて、かならず書かせられる。私は、この書くいうのがイヤでなあ。

 向井さんは僕にしゃべってるように書いてみいうねん。で、なんとか書いたものをもってくと、自分で何か書いてるときでも仕事を中断してすぐ読んでくれる。そして直すんや。

 「僕の意見をいれてるんとちがうんやで。ふう子さんになったつもりで、ふう子さんやったらこんなふうに思ってるにちがいないいう思いで、一生懸命なおすんや。ひとの文章をこんなにていねいに読んで直してくれるもんはほかにはおれへんのやで、これが僕のふう子さんに対する、僕にできる最大の愛や」いうて。しかし、この愛がつろうてなあ。

 七八年やったかな。生まれて初めて講演を頼まれたんや。そんなぁ、とんでもないいうて断ろうとしたら「やってごらん、僕が手伝うたるさかい」いうねん。で、「おんなと反原発」いう題で原稿五〇枚を書いた。これ書くのにまる二ヶ月以上かかったと思う。ひとがくるのは夕方やから、昼間はふたりきりのこともある。向井さんはこの時私につきっきりでいっしょに原稿書きしてくれた。書いては見せ、見せられては書き直す。そんな作業のあいだ、ふたりはふたりになって、そしてひとつになってたんやな。いまにして思えば。

 その後の私らの運動名をざっと書けば、「なにがなんでも原発に反対する女たちグループ」「たんぽぽ図書館」(獄中への図書差し入れ)「日高に原発建てさせへん!電気料金支払い連合(不払い連)」「かたつむりの会」(死刑廃止)「虹の会」(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃を許さない支援連絡会ニュース読者の会)……といった具合で、八八年、私が胃癌になって、九〇年に犬山に引きこもるまで、このサルートンでの、まるで毎日が戦場のようなくらしは続いた。

 押しかけて十六年、犬山にきてやっとふたりきりになれた。

 向井さんは、私の誕生日に「わが唯一のひとへ」とラブレターをくれたんやけど、ふたりはなにより、ずっと互いにとっての男と女やった。これが向井さんと私のいちばん強い結びつきにはちがいない。でも、向井さんは運動の大先輩やし、いろんなことを教えてくれる先生でもあるし、お父さんのようなお母さんのような保護者でもあったから、ときに反抗したり楯突いたり、泣いたりわめいたりもけっこうあった。なにしろ私はしつこい。「朝、目を覚ますと、枕元でふう子さんが仁王立ちしてるんや」って、犬山を訪ねてきたひとにぼやいてたこともあったな。

 私らは、犬山にきてだいぶのんびりしたくらしになったけど、それでも今まで通り、変わらずにふたりでやり続けたことがある。「非暴力直接行動」「風」それから「黒」の発行で、〈書く〉いうことや。この頃からはよく対談形式で文章を書くようになったんやけど、それはまた、それまでの書いては見せ、見せられては書き直す、その作業をそのまま対談として紙面につくることやった。

 向井さんは亡くなる一年くらいまえ「ふう子さんはもうひとりで文章が書けるよ」って云ってくれたけど、思えば、この三十年のくらしの大部分を「ふう&こう」で文章を書くことに使ってた。ふたりでひとつの文章をつくっていく、その過程そのものがふたりの愛の交換やったんや。二〇〇三年八月六日、向井さんは八十三歳でこの世からいなくなった。いなくなって気がついたんや。文章を書いてるとき、私はいちばんおいちゃんといっしょにいるんやって。それをいまつくづく切ない思いで実感する。

 ふう&こうで書いた最後の本を去年の夏に仕上げた。やっと、はじめて、ほんまに共著といえるもんになったかな。でも、これからやな。いよいよ、ふたりがいっしょくたになっていくのは――。