「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 47号

  • たまには家からでて・・・水田ふう


 けさ起きてラジオをつけたら、「日曜訪問」いう番組がはじまってた。作家の佐木隆三が出てきてしゃべってる。三十何年か前に直木賞を受賞した『復讐するは我にあり』の改訂にとりくんでるそうなんや。当時、わたしは奥崎謙三さんからごっつ推薦のハガキをもろて、映画の『復讐するは我にあり』の方を先に見て、やっぱり面白くてあとで本までよんだくらいやった。
 ところが、佐木隆三はずいぶん前から、まるで警察と検察の手先のようなことばっかり云うようになってたんや。オウム事件なんかでさかんにテレビにでてきて、弁護士が裁判をわざと遅らせてる、とか。わたしはねまきのまま、聞き耳をたてた。
 長年の裁判傍聴でなにを見てこられましたか? の質問に、このひとはこんなふうなことをこたえてた。裁判で被告は丸裸になっていく。人間とはなにかということを考えさせられる。刑事事件にぜひ関心をもってほしい。そう云って、裁判員制度をえらくもちあげてみせるんや。
 「改訂」いうて、きっと書いた時の自分の立場を「修正」するんやわ。丸裸にする側と、立場をおんなじにしてしまったんやからな。
 警察の取調べいうもんがどんなにいい加減で意図的なものか。そして、起訴されたら百パーセント近くが有罪になってるような、ひたすら量刑だけをやりとりしてるような裁判。裁判員制度いうのは、その迅速化、簡略化をめざすものなんやろ? と同時に、個人の思想信条の自由をも剥ぎ取って、それこそ丸裸にするもんや。そして、どんなデタラメ判決も「国民が参加していっしょに裁決した」という云い訳がつく。まあよう考えたなー、というとこやけど、「民主主義制度」いうのは、なるほど上手にひとをだます制度のことなんやな。
 ほんまになあ……ため息ばっかりや。……