「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

1年に1度くる日【おさきまっくろより転載】

 橘宗一墓前祭が毎年おこなわれるようになって、今年で三十三年になる。橘宗一といってもその名を知る人はほとんどいない——

 一九二三年(大正十二年)九月、関東大震災のどさくさに軍閥は流言を放って、何百人とも何千人ともいわれる朝鮮人が民衆によって殺され、平沢計七、河合義虎など九名もの南葛飾の労働者や主義者が習志野騎兵隊に殺された。この不穏な状況下の十六日、大杉栄は、ようやく消息のわかった弟勇一一家とそこへアメリカから来ていた妹あやめの息子宗一の様子を気づかって鶴見へ野枝さんとでかけたんやった。そして、家にくれば魔子とも遊べるしと、連れて帰る途中、大杉、野枝と共に憲兵隊に連行され、三人ともそのまま虐殺されてしまったんや。
 宗一は当時、まだ七歳の少年やった。

 「宗一ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年九月十六日ノ夜大杉野枝ト共に犬共に虐殺サル」と碑文に刻みこまねばならなかった父惣三郎の怒りと嘆きはどれほどのものやったろう。
 しかし、この墓の存在は関係者のあいだにも知られていなかったんや。それが、宗一君が殺されて五十二年、碑が建てられて四十数年たった一九七二年九月、名古屋覚王山日泰寺の墓地の近くに住む西本令子さんが犬の散歩途中、「犬にひかれて踏みこんだ小道で、たけなす夏草に埋もれた」この墓をみつけ、碑文を読んでひどくこころ打たれ、朝日新聞「ひととき」欄に投書しはったんや。それが近藤真柄さん(堺利彦の娘で、「一無政府主義者の回想」の著者・近藤憲二さんとつれあい)の耳に伝わり、その二年後に墓碑保存会ができたんやった。
 真柄さんが「……墓を保存しようという気持を燃え立たせたのは、あの無惨な死を無駄にしてはいけない、再びそれを繰り返させてはいけない、という皆の心持の、人間の心の中から燃えあがったものだとおもいます。ただ私は、お墓を保存するだけではなく、このような殺され方をしたこの事件を再び繰返してはいけないというところに重点をおいて考えなければいけないと思います……」と話された第一回の墓前祭に、大阪から何人かといっしょに向井さんにくっついて出席したんやった。
 向井さんはそのころ、サルートンに出入りする仲間うちでは一人とびぬけて年長で、若いわたしらからしたら父親ぐらいの年令やった。それが、この墓前祭に集まったひとたちの中では(わたしらを除いて)一番若いくらいでびっくりした。向井さんは七十三年一月幸徳大逆事件記念集会に上京して、真柄さん宅に泊めてもらったんやけど、そのとき、たまたま、墓碑の発見を伝える西本さんの来信をみせられ、すぐに行けない真柄さんにかわって「ちょっと様子をみてきてよ」という依頼で名古屋に途中下車して墓碑をみにいって……それ以来向井さんも墓碑保存に助力することになったんや。
 その真柄さんも一九八三年に亡くなった。その六年後に刊行された「忘れえぬ人々」——保存会の十五年——に向井さんは「一年に一度来る日——真柄さんへの恋歌」という文章を書いてる。

 「以来例年九月十五日におこなわれるようになった「橘宗一墓前祭」は、ただ大杉や野枝や宗一の虐殺を想起するだけのものに終らず、ぼくにとっては、そこで毎年一度必ず真柄さんに出会えるということによって——(うかつにも長いことそれと気付かなかったが)——幸徳やスガ子やそれから古田大次郎や中浜哲、金子フミ子、和田久、とつづく多くの忘れがたい人々へのおもいをこの一日に凝聚して、「一年に一度は必ず来る」日となったのだった。」

 そして最後に、

 「真柄さんが逝って、はや六年。
 だがぼくは、毎年一回、ずうっと墓前祭で真柄さんに出会ってきた気がする。
 だから、そして今年もまた、ぼくは真柄さんに会いにいく。もちろん生前の真柄さんと共に生きていた幸徳や大杉、スガ子や野枝やフミ子、和田久や村木源次郎……にも。
 それにつながる九月十五日のなかまたち——佐藤ふみさん*小島康彦さん笹本雅敬さん……にも。きっと来ているだろう。
 一年に一度は必ず来る九月十五日、その日に。」
 *佐藤ふみさんは、名古屋の墓碑保存会に尽力したひと。

 わたしは、第一回に行ったきりで、その後はほとんど行かんかった。
 年寄りが同窓会みたいにただ集まるだけでなにするわけでもないし、わたしにはひとつもおもろない。汽車賃つこて行くほどのこともないわ……いうて。
 それがだんだん自分も年をとって、この向井さんの文章に出会ったとき「ああー」と恥ずかしさで体が熱くなった。時々向井さんのお供で出かけていったとき見た、「また来年お会いしましょう」いうて一人一人に握手をし、別れを言い合っていた星野凖二さんや大竹一灯子さんや菅沼幸子さん……の「また来年……」ということばに込められていた深い思いに、わたしは初めて思い至ったんやった。
 年寄りは自分からは何にも語らない。尋ねてくれるひとがいれば、聞いてくれるひとがいれば、たくさん話したいことがあるのに。死者はもっと語らん。自分が探して傍によってこころをよせなかったら、絶対向うからは云うてくれへんのや。今年もわたしはおいちゃんに会いに行った。おいちゃんにつながる九月十五日のなかまたちに会いにいった。
 そやけど、これまで、集まりを続けるための金を集め、人を集め、案内を出し、講師の心配をし、当日の手配の骨折りを中心になって担ってこられた藤本さんが今年九二歳で亡くなってしまわれた。参集するひとたちもだんだん年とって、一人減り二人減りして、今年は二十人もいたかな。塚田さんが娘さんをつれてきたり大竹くんが来てくれへんかったら、ほんまに寂しいかぎりやった。
 向井さんが以前「ただ集まるいうのは何でもないことのように見えるけど、またいつこんな集まりができんような時代になるかもしれん。その時になって急に集まろうとしてもできるもんやない。そのためには、いま、こうしてこの集まりを続けるいうことが大事なんやで」と云うてた。そやけど、なにもお上が弾圧せんでも、老人たちが死んでしまったらこの集まりはなくなってしまうやないか。このままやったら、死者たちの遺言は再び草むらに埋もれてしまうやないか——。

 一年に一度は必ず来る九月十五日、来年のその日に、あなたは来てくれますか。(風)

転載元

saluton.asablo.jp