「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 49号

  • ひとは夢でつながる。その夢は、ただの夢ではない。ー死刑廃止!!殺すな!!105人デモを終わって

今年の初め「十月の世界死刑廃止デーにデモをしよう!」と、思いたった。

 それからというもの、ひたすらデモだけできたもんやから、終って一週間になるというのに、まだ頭の中をデモがぐるぐるかけまわってる。
 翌日はなんともなかったけど、二日目あたりから足の付け根、背中、腰が痛くなってきた。(なにしろ先頭にいったり後にいったり、転んだりして走り回ってたから)喉もかすれ気味。右腕がしばらく痛かった。(マイクで大声を張り上げてたせいや)

 鳩山元法相が「ベルトコンベヤー式」を言いだして、二ヶ月にいちどの速さで十三人も処刑してしまった。
 こんな法務大臣、戦前戦後を通じて他にはいてへん。「八割の国民の支持があった」と言い切って開き直ってた。マスコミの煽動によって世間もこれを支持?して、「死刑廃止」なんて言おうものなら石でもとんできそうなフンイキや。よし、そんなら、そんな世間にむかって、あえておおっぴらに「死刑廃止」を宣言して街をデモろう――と思ったんやった。

 犯罪白書によると、殺人事件は戦後三〇〇〇から一三〇〇まで減っている。被害者の数でいうと七〇年代半ばで一二〇〇人やったのが二〇〇七年で六〇〇人を切っている。最近ではそれがさらに減少しているというのに、死刑判決は逆にどんどん増えて、一九九〇年、死刑確定囚は四六人やったのが二〇〇八年には一〇五人にまでなってたんや。
 それまでまがりなりにも「死刑はやむを得ない」やったのが、いつのころからか「死刑こそが正義」に変わってしまった……。

 「正義」こそ恐ろしい。合法的になんぼでも人を殺せるんやから。
 「死刑賛成」というあなた! 「殺せ 殺せ」というあなた! それはほんとうにあなた自身のなかから出てきた言葉なのか? マスコミや世間の声に惑わされて出てきた声ではないのか―― 戦争中みたいに「あいつは敵や」「敵は殺せ殺せ」と同じような心裡状態になっているんとちがうんか―― いま、この国には一〇五人の死刑囚がいる。あなたは、本当に、この一〇五人を殺せというのか。これだけの人を、あなたは、自分自身の手で殺すことができるのか――いうて歩こうと思ったんや。一〇五人という数を具体的に目に見える形にして歩こうと思ったんやった。

 しかし、一〇五人、ほんまに集まるやろか。
 なにしろ「かたつむりの会」のメンバーは三人。十五年まえ〈死刑廃止フォーラムいん大阪〉と〈かたつむり〉でデモをやったとき、集まったのは三十人足らず。
 集会でもやっぱり三十~四十人くらいかなあ。
 「かたつむり」で二ヶ月に一度発行してる「死刑と人権」の読者は全国で三〇〇人ほどいるんやけど、年令も高齢化してる。「風」の読者もそれと似たようなことや。遠方からきてもらうにはしのびない。
 わたしも「かたつむり」といいながら、犬山に越してきてから大阪は遠くなって、ここ十年以上、死刑執行があって大阪拘置所にいく以外、ほとんどなんの動きもしてない。なんとか関西近辺からきてもらわんことには――と思って、ともかく大阪通いを始めた。
 「死刑と人権」に同封した九月一六日付けのビラに、「参加者・ただいま七四人! デモまであと二八日」とかいてる。この段階では、ほんまに一〇五人集まるやろか――とかなり悲観してた。
 デモの前日になってやっと一〇五人になったけど、ギリギリまで心配やった。
 それがなんと、十月十二日の日曜日、南堀江公園に全国十六都府県から二〇〇人以上もの仲間たちが参集した。一八〇人くらいという人もおったけど、二五〇はたしかや、いや三〇〇人はいたでという者もいて定かではないんやけど、首に一~一〇五までの番号をぶら下げてた人が、下げてない人の群に隠れるほどで、「死刑囚」を探すのがむつかしいくらいやったから、デモでは一〇五人の倍以上いたのはたしかや。口から口の口コミで広がっていったんやろな。

 今年のはじめに思い立ったとはいっても、デモ案内の手紙ビラをだしたのは四月はじめ。それを持ってあちこちに顔をだしながら、デモに続く前段として〈裁判員制度と死刑〉の連続講座を企画。ところがやってみて、参加したほとんどは死刑制度より裁判員制度の方に関心があって来た人たちで、デモとは結びつかんかったなあ。それでいったん連続講座は休憩してデモのことに専念せなあかんわ、とあわてだしたのが七月。
 七月五日、大阪の若い衆が〈G8反対〉で〈環状線ぐるぐる行動〉をするというメールを送ってきた。さっそくデモのお誘いビラも持って待合せの「福島」駅に出かけてみると、まあ、ベビーカーをひいたり赤ちゃんだっこしたり、お腹の大きいひとや、ほとんど二十代三十代前半の若者たち十七、八人。そこになんと警察が五十人以上もきて取り囲んでるんや。その警官隊が電車にいっしょに乗り込んでくるから、予定の車内ビラ配りは中止して、座席に座ったり、立ったりしたそのままで、あちらとこちらで大声で〈反G8〉掛け合い漫才? それには警察も手が出せなくてみんな大満足。さしずめ車中寄席というわけや。

 八月の十六日にも若者たちの「のびのびサウンドデモ」というのがあって、かたつむりの三人とビラ持って行ってみると「環状線ぐるぐる行動」にきてた人らとまた会った。
 サウンドデモいうのは先頭のトラック荷台にサウンド機材を積み込んで、プロやセミのDJがそれを操作してガンガン音を出す。東京で始まったこのサウンドデモは、若者の間ではやっぱり人気がたかい。
 わたしも東京で最初の頃何回か参加したけど、やみつきになりそうやった。三年前に名古屋の仲間とやったサウンドデモも、東京からプロのサウンド機材を積んだ仲間がきてくれて、ビルの谷間を震わせるような、それはそれは大音響で、体の芯にズンズン響いてなんともここちいいねん。
 しかしサウンドデモいうことで、それまでの反戦デモなんかではみられん、警察の異常な対応やったことも覚えてる。

 この「のびのびサウンドデモ」は取締りもそれほどきつくなかったし、大音響というわけではなかったけど、体に響くサウンドに乗って、文字通りみんなのびのび踊ったり、明るい顔つきで、「貧乏人の一揆だあ」などと叫んでる。
 「これが噂のサウンドデモか」いうて、かたつむりの二人もうれしそうに歩いてたな。百人ちかくはいたやろか。(その勘定でいくと、一〇五人デモは、やっぱりこの日の三倍近くはいたなあ?) そして、この月から「環状線ぐるぐる行動」を企画したGたちが相談会に来てくれるようになって、「かたつむり」はいっぺんに活気づいたんやった。
 そうなると人が人を呼ぶんやな。「サウンドデモでビラをみて」といってKくんが来るし、「デモの案内を友人のブログで見て」いうてSさんが加わり、自分でもビラをつくって(わたしらのセンスではとてもつくれん面白いビラや)、自分のバンド仲間や、あちこちに千枚近くも撒いてくれたり……頼もしいというか、うれしいちゅうか。こうやって新しい仲間に出会えるいうことが、何かをやる醍醐味やなあ。

 八月四日、出発地点の公園がやっと決まって撒きビラができたんやけど、それを「おさきまっくろ」のブログにのせたら、一気にブログを見るひとがふえた。それまでせいぜい一〇〇くらいやったのが三〇〇くらいにも上がったんや。
 デモが終った後も四〇〇ちかいひとが見てたし、これはもう公安やらだけではないやろ。デモに参加した仲間や、デモに関心をもってみてくれてるひとにちがいない。

 「死刑と人権」の読者の年齢層は、わたし(六十代)と同じくらいか、それよりちょっと上か下か、いずれにしても、五十代以上やろ。しかし当日の顔ぶれを見てみると、六割がたはわたしの知らない二十代~四十代で、あとはいろんなところで顔を会わせたことのある、大阪や各地でいまなお、それぞれなんらかの市民運動にかかわりながら死刑の問題にも関心をよせている五十代以上の人たちが三割――いうかんじかな。(残り一割が主催者周辺)
 ほんまに、このいろんな年代層がそれぞれの場所から一つのデモに集まったいうことが近ごろではめずらしい。めずらしいだけやなしに、いろいろなんが集まるとそれだけで不思議な相乗作用が起きるんやな。
 これこそ自由な連合がつくりだす相互補完的活気というか……ベビーカーをおした子どもづれ、車椅子のひと、紳士淑女はおらんかったけど、若いにいちゃんねえちゃん、おっちゃんおばちゃん、服装も派手なのから地味なのから、うさぎの着ぐるみきた中学生もいたな……にいちゃんが警官とやりあってると、おばちゃんがとめにはいるし……おばちゃんが転ぶとにいちゃんが起こしてくれるし……車椅子を交替でおしたり……にいちゃんがこどもをみたり……マイクも交替でつぎからつぎと誰かがしゃべってるし……なにしろ主催者メンバーいうても五人きりみたいなもんで、当日各地から来てくれた人に急きょ受付けやらスタッフやらをおねがいして、あとはもうそれぞれ、その場その場で役割を買って出て、デモ百戦錬磨のひともきびきび動いてるし、頼もしいかぎりやった。

 今回のデモの先陣を切ったのは、高さ三メートル以上もある「だんじり」。これを思いつき作ってくれたのは、「環状線ぐるぐる行動」のGたちや。つくった本人たちが、「たぶん、これは大きすぎて警察とモメルで」と言いながら公園で組み立てをしてたんやけど、高さの規制は許可条件には入ってなかったから、こんなん予想もしてなかった警察は、いまさらどうすることもでけへん(次回からはごちゃごちゃ言われるかもしれんけど、その「根拠」はどこにもない)。
 「だんじり」にはサウンド機材を積むことにしてたけど、軽トラで申請すると、勝手に「暴れるサウンドデモ」を警戒されて警備がきつくなっては困るから、あえて「人の力で動かす車――人力車」で申請したんやった。
 この「人力車」を見て「だんじり」や、とうまいこと表現してくれたのは、泉南のひとやったけど、まさにそうやった。「だんじり」は大活躍や。なにしろ目立つ。(ほんとうは、このやぐらには、Gたちの仲間が一日がかりで作った手書き手縫いの幕で覆われるはずやったけど、それが乾かしてた公園から盗まれて残念無念! 改めてつくった幕に足して、ノボリ旗用につくった「叫びたし寒満月の割れるほど」の長い旗を垂らしたんやけど、遠くからも沿道からもよく見えた。デモ隊の中からつきでた十五本のノボリ旗も「一揆」みたいでなかなかよかった。)

 祭の「だんじり」は、前に進むだけやなしに後にもどったり横にゆれたり、ぐるぐるまわしたりしながら進むもんや。デモの源流は祭にある。郡上祭は百姓一揆で殺されたものたちの怒りの表現やった。(デモ申請で、祭りやったら道路いっぱい許可がでるのに、デモやったらなんで許可せえへんねん、エコヒイキするな言うたら、祭とデモとは違うんやと)
 当然この日の「だんじり」も後にもどったり横にゆれたりぐるぐるまわったり……それで一しゅんひとり逮捕されそうになって、もみくちゃになった場面もあったけど、無事にすんでこれはほんまにホッとした。

 福岡から参加のTさんが「不思議な二〇〇人の集まりやった」とメールくれたけど、考えるとほんまにそうやった。
 Mちゃんも「死刑廃止というと人権派というか宗教関係というか専門家というか、死刑廃止を言っている人たちの『とくべつさ』みたいなものが、つきまとっていたのだけれど(そうじゃないことの、いらだちもあった)なんだかストレートに死刑はやめよう! と、みんなで叫べて、それがちっとも違和感なくて連帯感あって、うれしい気がしました」とメールで言ってきたけど、今回「一〇五人デモ」に参集したひとたちは、これまで「死刑廃止」運動とは、あんまり縁がなかったひとたちではなかったかな。
 GたちやSさんKさんたちからして、「死刑」について考えたり、「死刑」のデモをするのは、今回が始めてやったと思う。
 デモの一週間前、デモ参加を申込んできたひとたち八十七人に、一〇五人で沿道のひとたちを惹きつけるデモをどうやるか――「デモについての下書き」という手紙を送った。そのとき警察がどうでるか、もしもめるようなことがあったらどうするか。これはぶっつけ本番「法務大臣」「看守」「番号をぶらさげた死刑囚」の「芝居じたてのデモ」なんです――いうつもりで。でも、そんな小細工、デモが出発したらふっとんでしもた。

 「アメリカ村」を通る――いうことで警察とさんざ押し問答したんやけど、ここはちかごろ、いまどきの若者たちが集まる大阪名所のひとつなんや。せまい道路をはさんで両側にびっしり店がならぶ商店街や。それも日曜の午後やから、そりゃあごったがえすほどの若者たちが歩いてるわけや。その真っ只中に「だんじり」先頭に、死刑廃止集団が登場したもんやから、みな立止まって目をぱちくり、口をあんぐり。Sさんの太鼓がドンドン鳴り響く。「わたしは、ほんものの法務大臣です」の演説も、「死刑囚一〇五人」の訴えも耳を傾けて聞いてるようすや。ビラにも手をだしてくれる。罵声もあったけど、石なんて飛んでこんかった。受取ったビラを高くかざしてデモを見送ってくれた服屋のおにいさんもいた。
 日曜の御堂筋もたくさんの人出や。松竹座の前なんか鈴なりになってデモをみてた。杉良太郎のファンのひとらも珍しいんやろ、けっこう注目してたなあ。

 この感じからすると、誘導尋問ではない、ちゃんとした世論調査をしたなら、八〇%死刑支持なんてことにはならんと思ったな。
 いままでテレビからは「死刑」「殺せ」いうことばしか聞こえてこんかった。それが突然、二〇〇人以上もの「死刑廃止」集団が「だんじり」を押し立てて現れ、「殺すなー」「死刑廃止ー」「死刑は人殺しやー」いうおおっぴらで、まっすぐな叫びが聞こえてきたもんで、びっくりしたんやろ。
 世の中には「死刑廃止」いうことばがあって、「死刑廃止」を叫ぶ者たちがこれほどもいるんや――とはっきり目に焼きついたにちがいない。

 「死刑廃止」は特別な信念をもった人だけの特殊な思いではないねん。「殺されたくない」「殺したくない」という、これはもうリクツではない、わたしら誰でもが持ってる、生き物として備わってる、本能的な感覚からでてくるものなんや。そやから、「死刑は人殺しなんや」「殺すな」の叫びは人のこころにとどくはずや。
 時に「犯人」に向かって「あんな奴はやっぱり死刑や」という思いがでてくるのも「殺されたくない」という思いとつながってあるもので、自分のなかにもあるものや。
 そやからこそ、わたしらは「殺せ」ではなく、誰でも持ってるもう一方の感情「殺したくない」「殺すな」――を、こんな殺伐として、ひどい世の中やからこそ、声限りに叫びたいんや。

 このおおっぴらでまっすぐな叫びは、死刑執行命令をだす法務大臣一人にむけられたものではもちろんない。国家そのもの、政府そのもの、そしてなによりこの「クソ社会」に向けられた異議・異和・反対の叫びなんや。そうしたものたちがこのデモに集まってきたんやないか。
 その怒りのエネルギーがあんなにも高揚したデモをつくりだしたのにちがいない。
 死刑廃止は、本来の素朴単純な「人を殺すのはいやや」からはじまって、国家そのものを対象とせざるを得ないラジカルな質をもってる。自分がどんな社会を理想とするか、その在り方・質が問われる運動でもあるんや。

 いまは夢が失われた時代やそうな。
 「死刑廃止」も現実路線として「終身刑」の導入がいわれている。しかし、獄中処遇の具体的な改善を一つひとつかちとってきた仲間にも、あるいはデモで何が変わるんやいうひとにも、わたしは言わずにはおれん。
 「死刑廃止」には「死刑廃止」にとどまらない、深い夢があるんや。運動から夢をとったらそれは運動ではない。
 夢を追って、その「過程に奮迅する」――いうのがわたしらのご先祖さんからの教えなんや。

 デモの後、六十五人も残った交流会の場で、安田好弘さんが言われた「なんで終身刑か」という話しは、だてやおろそかには聞けんはなしやった。わたしは安田さんが好きやし、はなしに心をうたれた。しっかり覚えておこうと思ってる。
 「終身刑反対」のわたしは、安田さんとは立場考えが違うけど「死刑廃止」をいっしょにやっていく仲間やと思ってる。

 いままで運動いうのは、分裂・抗争の歴史やった。運動いうのは、違う人といっしょにやるもんや。しかし、いまだにそれは実現されてない。違うものと自由に連合する――いうのが、わたしらの夢や。
 人はやっぱり夢でつながっていくんやと思う。そのことをつくづく思い、実感したデモやった。
 「死刑廃止!! 殺すな!! 105人デモ」に参加してくれた、応援してくれた一人ひとりと、握手を。

いかなる死刑にも反対!
殺したくない 殺されたくない!
生まれたら殺されることなく、殺すことなく生きられる社会を!

  • デモ申日記

やっと「死刑廃止!! 殺すな!! 105人デモ」のデモ申請が済んだ。書きはじめたらなごなったけど、顛末を忘れないうちに。

七月三十日(水)

 「デモ申請」をするには集合場所にする公園使用の許可がいる。出発はアメリカ村に近い堀江公園がええやろ、とおもって、私はさっそく管轄の公園事務所に出向いたわけや。

 ところが、アカンという。なんでやねん。地区の住民がイベントやデモは近所迷惑で許可できんという。公園が借りれんかったらデモでけへんやないの。デモの自由が憲法にかいてあるんやから、デモが誰でも気安くできるように条件を整えておくいうのが、公園課の仕事やないの。

 町内会長さんにこっちから出むいて交渉するから住所教えていうて、掛け合うこと小一時間。水を一杯もらって、死刑についてもいろいろ話す。ここの公務員さんは、ヨーロッパEU諸国には死刑はないし、いまじゃ、世界全体では「死刑のある国の方が少ない」んやいうことを知らんかった。最初はアカン一点張りやったけど、だんだん興味をもって聞いてくれて? ひとしきり演説や。「じゃ、いっぺん自治会長さんにこちらから話してみる」というので、お願いして帰る。

八月四日(月)

 坂やんと近鉄難波からアメリカ村?堀江公園?解散地点あたりを時間を計りながら歩いてみたら、全部で三十分もかからんかった。このコースだとえらい短いデモになるなあ、と思いながら再び公園事務所に。連絡がくるのをじっと待ってられへん。案の定まだ町内会長とは連絡をとってない由。

 これ以上待ってもいつのことになるかもわからんし、なにしろ、この出発地点が確定せんかったら、ビラがつくられへん。ちょっと遠くなってもいいと思って、南堀江公園を借りることにした。これはすぐ貸すというんや。一週間後やないと許可書は出ないけど、すでに許可は出ていると警察に電話してくれるという。その足で大阪府警に。

 まあ、なんちゅうでっかい建物や。向うに見える大阪城より大きいくらいやんか。正面をはいるとウワーひろーい。天井もグーッと高くて、つきあたり壁面全体がガラスで中庭の緑の木々がみえる。まるでホテルのロビーのようなかんじ。クーラーがガンガンに効いてて、汗でぐっしょりになってたシャツがいっぺんに冷えて風邪ひきそうや。なにがCO2削減に努めましょうや。こんな建物ばっかり建てるから石油を食うんやないか。

 ロビーの両脇に並んでる「応接室」の一つに通される。これが「応接室」? 中は冷房が効いてて寒いくらいやけど、狭いし窓ひとつないし、まるで取調室みたい。

 「デモの申請をしたいので用紙をください」というのに、「そのまえにお話をきかせてください」いうて、まっさきにデモコースにあれこれ注文をつけてくる。アメリカ村はやめてくれ、いうんや。

 「わたしらはデモコースの相談にきたんやないの。コースはもうこちらで決めてるんやから、あんたらはそれを受理したらそれですむやんか」いうても、なんとか「説得」しようとがんばりはる。

 「何千人もデモに集まるいうんなら、そんな大通りをデモしてもええけど、わたしらみたいな百人くるかこんかのような少人数のデモで、そんな車ばっかりのとこ、いっこもおもろないやないの。あかんあかん。こっちはもう決めてるんやから……」

 と、なんだかんだで二時間ちかくもあれこれ話しを聞かせられて、あげく、十月までにはまだ早い。道路の状況も一ヶ月まえにならないとはっきりせんから、今日は申請書は受取れんという。しかし、一ヶ月前でないと受理できんいう法律はないはずや。こちとら愛知県の犬山から汽車賃大枚つこてきてるんや。近鉄でも往復八千円ちかい出費。新幹線に乗ろうもんなら、往復で一万二千円以上かかる。そうなんべんも大阪までいかれへんのや。無駄足にするんなら、交通費出してほしいわ。まったく!

九月一日(月)

 前日、「どこまでも九条の会」で、池田浩士さんの「死刑と戦争」の学習会があったので大阪に。

 朝、一月前にはまだ早いけど、大阪にきてるので、いまから出向くと大阪府警に電話する。

 「今日きてもらっても申請書をうけとれない。まだ道路状況がはっきりしないから」

 という。そしてまたコースを見直すようにくどくどいってくる。ラチがあかん。ほんなら、十八日にはどうしても行きますからいうて、電話をきる。

 

九月十六日(火)

 犬山のわが家に、大阪府警の山本さんから電話や。

 「アメリカ村はアカンていうてはったけど、アメリカ村を通ったデモがあったやないの」

 「アカンとはいうてません。お願いしてますんや。日曜日を返上して、デモ出発と同じ時刻、南堀江公園からアメリカ村をとおって御堂筋を歩いてみました。ほんとにここは道が狭いし、人が混み合ってるし、そんなところを歩いて市民のみなさんのひんしゅくをかったらよくないでしょう」

 「ひんしゅくいうんやったら、デモのそばにおまわりさんがついてるいうことが、ひんしゅくやんか。警察の存在自体がひんしゅくや。

 でも、警察にもりっぱなひとがおるんやなあ。現職のおまわりさんで警察の裏金を訴えて勝訴した、仙波敏郎さんのこと知ってるやろ?」

 仙波さんは二十三歳で巡査部長の試験に合格するほど優秀やったけど、裏金の領収書にハンコをつくのを断ったばっかりに、その後三十年以上も巡査部長のままで冷遇された。でも、奥さんがガンで亡くなって、もう心配かけるひともいないからいうて、警察の裏金問題を訴えたひとや。もちろん警察ではずっといじめにおうてたらしい。

 「事務の仕事してても旅費やなんやいう名目で闇給与もろてるひとがおるんやから、そりゃあうっとうしがられるやろ。それでも仙波さんは辞めんと頑張らはってすごいなあ……

 なあ山本さん、死刑廃止なんて人気ないねん。死刑廃止いうだけでひんしゅくや。死刑廃止がみんなに歓迎されてるんならデモなんかせえへん。死刑廃止は圧倒的な少数派や。そやからデモするんやないの。日頃はみんなひとりぼっちや。一年準備して百人集まるかどうかの小さいデモや。大きな車道路で百人くらいでデモしたら、よけいにしょぼんとなるやんか。道行くひとにマイクがなくても声がとどくような小さい道でないとあかんねん」

 とにかくあさって行くんやから……電話代も税金やで、といっておしまいにする。時計みたら二時間もや。

九月十八日(木)

 前日はSORAで「死刑と人権」の発送。Sやん、Kさん、Gさん、Sさん、Fくん、Tちゃん。いつもの倍の人手で、八時半には作業終了。で近くで一杯やりながらデモの相談。

 デモは流れ解散の予定やってんけど、遠くからくるひとたちもいるのに、そのまま道路上で警官に追い立てられて別れ別れいうのもなんやし、終点近くの元町中公園もかりることにする。元町中公園の管轄事務所は天王寺公園内にある。二時に府警に行く約束やからまだ充分時間がある(はずやった)。

 もうふた昔も前、阿倍野に住んでたころ、天王寺公園はサルートンからすぐ近所で、のんびりした、ほんまにええ公園やった。日曜日、ゴザをしいて反戦露店市をやったり、お客がくるとうちの庭やからいうて散歩に誘ったり……それがいまじゃ、地面はコンクリートで覆われ、公園全体はぐるりと高い柵で囲われ、入園料を払わんと中にはいれなくなった。なんというグロテスク。そうやって公園に住んでた人たちを追い出してしまったんや。

 ちょうどお昼時とかさなって、応対に出てきた職員の機嫌の悪いこと。公園は他と重ならんかったら借りられるけど、公園の「行為・占用許可申請書」に元町中公園愛護会々長のハンコをもらってこい、という。ははーん。誰の陰謀か、そういう手続きをかってにつくって、「慣習」にしてるんや。それで堀江公園は、あらかじめハンコをつかんと通知してるんやな。

 ここで言い合ってもしょうがない。しかし、あんた公務中やろ、機嫌の悪いのやめてんか。あんな遠くの公衆電話まで行けなんてせっしょうやで。十円だすから事務所の電話かしてんか言うたら、自分のケイタイ貸してくれた。会長さんに電話すると自宅にいく道筋をくわしく教えてくれた。大国町で乗り換え、四つ橋線の難波まで。そこから歩いて十分ほど。

 「そやけど、ほとほと、デモ一つするのに、こんなに手間がかかってめんどくさいとはねえ。コース一つに文句つけられ、ハンコまでもらいにいかなあかんねんから……やるなというてるようなもんやんか」

 ぶつぶつ独り言をいいながら、会長さんの家をやっとみつけてハンコをもらう。会長さんは塗装屋さんで、ええかんじのひとやった。どんなデモしはるの、いうから死刑の話をすると、いろんな質問してきはって、小一時間も話し込んでしもた。裁判員制度の話もして、「いやですなあ」というてはった。

 約束の二時はとっくに過ぎて、府警に着いたのはもう四時前やった。山本さんと河野さんのコンビで、またまたくどくどとコースの「指導」。

 「あんたらなあ、警察はわたしらのデモ申請書を受付けてそれを公安委員会にもっていくだけの役目なんやで。それをどおせえ、こおせえいう権限はあんたらにはないの。なんぼいわれても変更するつもりはないんやから。

 このデモに関する条例をちょっとよんでみ。第六条や。この条例のいかなる部分も、行進・集会を行う権利を、いかなる方法においても、禁止又は制限するものと解釈してはならない、とかいてあるやろ……」

*行進及び集団示威運動に関する条例

http://www.city.sakai.osaka.jp/reiki/reiki_honbun/as00006391.html

 河野さんには、同じ名前の河野義行さんが松本サリン事件で警察にいかに酷いことをされたかを話す。警察が謝罪したのは、その八年後、河野義行さんが公安委員になったから仕方なしにや。

 警察の河野さんはその時は黙ってはったけど、しかし、いっこうにデモの「申請」はさせてくれへん。だんだんわたしの方がくたびれてきた。

 それにアメリカ村をでた御堂筋で、そごう・大丸の側がにぎやかいと山本さんはいうんやけど、自分の目でたしかめるまでは信用ならん……ちょっと今日は帰るわ。もういっぺん自分でコース歩いてみて、またくるわ言うて、席をたつ。

 公園事務所は五時半までと言うとったから、急いでまた天王寺公園まで小走り。

九月二十一日(日)

 SORAでデモの相談会やから、その前にデモコースを歩いてみる。中島くんが時計と地図をもって。

 ビラの案内にあるように新大阪駅から地下鉄にのって千日前線桜川駅下車。公園まで徒歩三分とかいてあるけど、七分?十分は歩いた感じ。三方向から丸見えの小さな公園。ここからアメリカ村までけっこうある。人通りは少なくて、パーマ屋さんやったか、ダイバーズショップやったか、店の前でタバコを吸ってる若者に話しかける。人出はいつもこのくらいやという。

 アメリカ村に入ると、さすがに若者たちの街らしい。遅い時間になったら人がもっとふえるやろ。わたしらの予定ではアメリカ村をぐるりとふた回りして、それから御堂筋に出て難波?高島屋?解散地点までを歩く予定やったけど、御堂筋は山本さんがいうたように、そごう・大丸の側の道筋のほうが人通りがあった。そして、坂やんと歩いた時は、全部歩いても三十分で終ってしまいそうやったのに、ふつうに歩いて一時間かかった。暑かったせいもあって、かなりくたびれたなあ。

 終点の公園まではもうしんどくて行ってないから、公園までやと一時間半はみとかなあかんな。年寄り組みは大丈夫かしらん。アメリカ村はふた回りはやめてひと回りにしようかな。山本さんと難航しそうやし……

九月二十二日(月)

 よし、大幅譲歩してアメリカ村を一回りにしたし、山本さんがいうようにそごう・大丸のほうを歩くんやから、今日はもう何ももめることはないやろ。さっさと済ませてはよ帰えろ。猫が待ってるんや。

 「集団示威運動等許可申請書」いうんやけど、目的・実施日時・場所・行進経路・主催者住所・氏名・参加団体・参加予定人員・現場責任者(総指揮者・副指揮者)、そして、別紙に行進経路略図を書き込む。略図は山本さんがあらかじめ書いてくれたのを、それを見ながら書き写すというわけ。(これがけっこうめんどくさい)

 ところが、また問題発生や。出発十四時、解散十五時三十分をどうしてもみとめようとせえへん。「お願い」がスタートや。

 「このコースのこの距離では、デモの歩き方で計算したら五五分。一時間半はおおすぎる」とどうしてもゆずらへん。

 「自分の足でさっさと歩いて、一時間かかったんや。デモやったら老人もいるし、子どももいるし、一時間半はみとかな指揮者として責任がとれん。とにかくこれで公安委員会に出してよ。許可がおりんかったら、審査請求でも訴訟でもおこすから、とにかくこれで出して」昨日の相談会でも、車いすが必要になりそうなひとがくるから、どこかで借りなあかんいう話をしたばかりや。もうわたしも動かへん。

 しぶしぶその数字を書き入れさしたんやけど、山本さんは「とうとうあなたとは人間関係がつくれませんでしたね」いうて苦しそうに顔をゆがませるんや。

 そしてこんどは河野さんが説得を始める。

 「せめて十五時二十分。じゃ、中をとって十五分」

 「あんたねえ。商売の値引き交渉してるんやないんやから」

 「こっちの顔もたててくださいよ」

 コースも変えたし顔は十分たってるはずやけど、まだ足らんかいな。わたしはもう知らんぷりして返事もしない。

 「さあハンコつくから申請書かして」いうと、朱肉をうしろにかくしてハンコをおさせへんのや! もうまったく。

 「デモがいくら時間内でも、故意にゆっくり歩いたら警告だしますからね。これは言っときますからね」と、山本さんの捨てゼリフ。実に実に悔しそうやった。きっと上役に怒られるんやろうな。おまえの指導はなっとらんいうて??。

 これだけのことで、十時から一時まで。警告何回か出たら逮捕らしいわ、あなおそろし。

 さあ、十月十二日まであと十四日!

 「死刑廃止!! 殺すな!! 105人デモ」は、ただいま九十一人や!(ふう)