「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 50号

  • やっぱしガンやったわ
  • 連続講座(その1)を終えて――

    裁判員制度と死刑――と銘打って連続講座を思い立ったのは、いままで「死刑」のことにあまり関心のなかったひとも、この制度によってむりやり「死刑」の判断をせまられることになるからや。「人を裁きたくない」と思ってる人はけっこう多いと思う。(それは世論調査の結果にも出てる。)そこで、自分の問題として「死刑」を考える機会になるような講座をやりたいと思ったんやった。

    裁判員制度は反対から消極的服従まで含めたら七割、八割のひとが歓迎してない。それを意識してか、裁判所が「出前講座」をやってるというので、さっそく出前を申込んだ。正直に裁判所の質問に答え、云われるままに条件をのみ、会場を予約し、機器を借り、日程も決めたのにもかかわらず結局断られた。難癖としかおもわれへん理由でや。(坂口さんの文章を乞参照)やっぱり「死刑廃止」をかかげるグループに出前するのは気がすすまんかったんやろか。

     裁判員制度とは一体いかなるものか――まずは向こう側の意見を聞いてから、という計画がダメになったとき、小田幸児弁護士(大阪弁護士会)が「このまま、裁判員制度が導入されたらたいへんなことになる。死刑のことでいろいろな問題が出てくる。どういう問題があり、どうすればいいかを考えるような集まりを持ちたい。」というてはる――と、Tさんから死刑廃止フォーラムにはなしがあった。(これは、こっちの一人合点やったらしいけど)

    小田さんは裁判員制度そのものには反対ではない立場、ということも聞いてたけど、「死刑」についてとても危機感をもってはるようやし、裁判所や国の意図にもくわしいはずやと思って、渡りに船という感じでお願いしたのやった。

     

    で、その報告やけど……わたしには、小田弁護士の講演内容を要領よくまとめることがちょっとでけへん。後から来た人に席まで案内してたりして、なかなか集中して聞かれへんかったいうこともあるけど……これは統治権の一翼を国民も担うもの……主権在民として……司法への国民参加……すでに法律で決まってしまっている……といった説明の言葉に引っかかってる間に次に進んでるし、スライドで映しだされた説明の文字や図表もスイスイ頭には入らん。今これを書きながらどんな話を聞いたのか思い出そうとするんやけど、そのまえにいま書いたような言葉が頭の中で渦巻いてるんや。

     小田弁護士の立場は、制度そのものに反対ではない。さまざまな立場からの政治的思惑のなかで折衷案のようなかたちで出てきた裁判員制度は、たしかに問題がたくさんある。制度としてもまだまだ不充分、不完全なものだ。しかし国民が裁判に参加することで、いまのあまりにもひどい刑事裁判を変えていくことができるのではないか、というものやと思う。法律に素人の市民であるからこそ、真面目に裁判に取組み、量刑についても一生懸命考える。市民はバカにしたものではない。私は市民参加に希望をもっている……と。

     

     何人くるかなあ、と心配してたけど四五の椅子が満席。受付けしながら顔ぶれをみると知らない人がほとんど。「死刑と人権」の読者は全体の一割くらい? インターネットやいろんなところで案内やチラシをみた一般?からの参加みたいやった。

    この日わたしは司会で、途中「ちゃんと司会せなあかんやないか」と注意を受けるほどに無能な司会やってんけど、いちいち指名せんでも、つぎつぎ自発的に発言する人があいついだ。どの発言も自分の問題としての切実感があった。

    在日の八〇歳になるというおじさんは、韓国で逮捕され、十年以上も投獄されていたんやて。そのうち死刑囚としての三年間は、二四時間手錠をされたまま。おじさんは、この裁判員制度をなんでいま国がやろうとしてるのか、この制度の向こう側には一体何があるのか、それがわからないから参加した。戦前の日本の雰囲気にとても似たものを感じる。在日韓国人ということで、私にはこの制度参加の資格(これは差別ではないのか)も義務もないが、たとえあったとしても、私は罰を受けても拒否する。私は人を裁きたくない。国家というのは、日本だろうが韓国だろうがドイツだろうが、どの国家も同じだ。国家というのは冤罪のものを「死刑」にするのだ……と毅然といわれたことに、わたしはおもわず大きく頷いた。

    最後に手をあげた女のひとの発言は、わたしも言いたかったことやった。主権在民としての国民参加といいながら、拒否すれば罰則があり、評議の場で話されたことは生涯にわたっての守秘義務、違反すれば懲役もありなんて、そんな制度を国は一方的・強制的に国民におしつけてくる。それが主権在民というものでしょうか。この制度の成り立ち、仕組み、その裁判の手続き、どれ一つとってもわたしにとっては不明りょうで納得がいかない……と。(我田引水的にうけとってるかもしれへんけど)

    それから「死刑に反対してるもの、警察の捜査を信用してないものは裁判員として選ばれない、と何かで読んだですが……」という彼女の質問したいして、小田弁護士は、そんなことは全くありません。公判二日?まえに名簿があがってくるのに、そんなことをひとりひとりチェックする時間はありませんよ、という返事やった。けど、百人?の中から書類選考したり直接面接した上で六人を選ぶというその判断基準なるものも実に不透明。やっぱり警察の捜査に疑いをもったり、死刑に反対してるものは外されるんとちがうやろか。

     

    制度についての理解も不充分なまま、納得もしないまま、裁判員の「くじ」があたって、いきなり裁判員の席に坐らされ、法廷でやりとりされる弁護士・検事・裁判官・被告の言い分をちゃんと聞き分け、聞きただし、評議の場では誰にも臆することなく(臆しても)自分の意見をちゃんと云うなんてことが、果してできるやろか。これは「民衆を信じる、信じない」という問題とは次元のちがう実際の問題や。

     たとえば、死刑か無期か、三十年か、二十年か……多数決で量刑まで決めるというんやけど、その多数決のルールが実にややこしい。まえもってちゃんと説明があるのかないのか、その場になって「そんな決め方はおかしいのではないですか?」と云ったらどうなりますか――と質問したら、小田さんは「もう法律で決まっている」とひと言やったけど、そうなると疑問を持つこと自体ナンセンスということになる。進退窮まって????をかかえたまま、どうしよう。それでも判決として出た「死刑」や「重刑」に加担してしまった以上、生涯それをどう背負っていくんや。これは兵役義務と同じ、「死刑=殺人」の強制義務化やないかという指摘は、ほんまにそうやと思う。

     

     それから冤罪の問題。戦前の陪審制の無罪率は十六・七パーセントやったらしい。いまの無罪率〇・一いう数字の異常さがわかる。裁判員制度いうのは、陪審制度とは根本的に別物やけど、陪審制度を取り入れてるアメリカでも冤罪はあとをたたないんや。

    冤罪をつくりだす最初は、まず警察の捜査・取調べに原因がある。「代用監獄」に長期間拘束し、「ひょっとして、こいつは犯人ではないかもしれん、なんて考えは、はなっからもつな」と警察学校で教えられた刑事が、捕まえたものはみな「犯人」ときめつけて取り調べる。それで採った調書をそのまま受けいれる検察・ひらめ裁判官。そういう実態を暴こうにも、取調べの可視化(一部可視化は最悪)くらいではとてもおっつかない。なにしろ警察というところが闇そのものなんやから。警察だけやない。検察も裁判所もや。そしておおくの弁護士さへ「犯人」とされたものの話をまじめには聞いてくれへん(時間もないし、金にもならんし)。「それでも僕はやってない」といっても、この制度は、あなたたちが承認し、決めたんですよということになってる。

    国民参加の国民による国民の統治のために、自分で自分の墓穴を掘って、自分でそこに落ちるような制度――としか、わたしにはおもわれへん。

    そもそも、警察や国家が誰を標的にして取締ろうとしているのか。どんなところに予算を使っているのか。(余談やけど、一台二億円もする監視カメラを、それこそ日本中あちこちに設置してるけど、その監視カメラをつくったりするセキュリティー会社いうのは、警察官僚の天下り先なんやて)

    裁判員裁判制度は、そういういろんな問題を放置したままの強行や。これでは、いままでよりもっとひどい拙速主義・粗雑な判決のスピード化が進むだけやないのか――という心配は当然やと思う。

    三日か五日か一ヶ月かしらんけど、とにかく短時間で「事件」の客観的事実・真実・真相はいったい何だったのか、そこでほんとうは何がおこったのか、そこにいたるまでには、何があったのか、検察が持ち出す科学鑑定なるものの信憑性、専門家でも判定がわれる精神鑑定の問題等々――を丁寧に検証することができるんやろか。そんな疑念は、やはり晴れんかった。

    こういう状態のまま「くじ」があたっても、在日のおじさんがいってたように、人を裁くなんてとんでもない、わたしも「罰」を受けても「拒否」しよう。だいたい、主権在民の実態なんてどこにもないのに刑事裁判の「裁く」場(それも一審だけ)に「立ち合わせ」て、それが「国民参加」「主権在民」なんていわれても馬鹿にされてる気分や。

    それをいうなら、水俣や従軍「慰安婦」や強制連行や被爆手帖や原発や道路やダムや公害企業や冤罪や靖国や米軍に対する思いやり予算や、沖縄基地や……国を訴えるような裁判にこそ「国民参加」させたらどうや。国を訴えた裁判で勝ったためしはないといっていいくらいなんやから。ひどいのは刑事裁判にかぎったことではあれへん。

     

     唐突に云うけど、つくづくどうしても「死刑」の問題は国家の問題にぶちあたる。国家というのは一体なんなんや。どうして、いつもいつもそんな大きな顔して、わたしらを支配してるのか。どうしてそれが許されてるのか。既成事実にはちがいない国家という存在。

    ほんとうは脱ぎ捨てることだってできるコートなのに、まるで皮膚のように生まれつきあるものとして馴染み、それを不思議とも思わなくなっている国家。「国家がないほうがいい」なんて云っても、荒唐無稽な幼稚な言説として相手にもされへん。

     でも、わたしは云うねん。「おまえはあとからきた支配者や。おまえがくるまえは、人びとは人びとが必要なものを直接に面突合せ相談し、解決し、ものを創り、考えてきた。それは簡単なことではないにしても、そこに歓びがあった。それはおまえがいなくてもできたことや」ってことを、わたしたちは、もう一度思い出す必要があるんやないか。

    国家と国民がいっしょくたになって国家の統治権を担おうとするのは、もっとも高度な奴隷支配ではないのか――って。

     

     さいごに――小田弁護士は、自分の立場を前面には出さないで、あくまで客観的に、「裁判員制度と司法への国民参加」「裁判員裁判の問題点」「裁判員と死刑」ということを順に説明をされた。質疑応答になって、その答えのなかで小田さんの立場が明確になっていったんやけど、そのやりとりが面白いものになったと思う。アンケートに「少し難しい話でしたが、いろいろな意見も聞けてよかった」(二十代)とあったし、帰り際、これも若い二十代の友人が「今日は面白かった」といって帰っていったし、連続講座としては、まさに(その1)の役割はあったんやなかろうか。さて、(その2)はどうしよう……。