「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

IOM 121号 

  • 思い付き的メモー武器としての共同体

共同体というのは、ざっくばらんにいって自主自治的なー自分が暮らし易いー社会生活組織、その一単位というわけだが、当然、資本主義体制のワクにあるかぎり(或は国家体制にからめとられて、のがれられない以上)、それを志向し、現実化したとしても、必ず歪曲化され疑似化することを免れえない。 そこで政治やもろもろの雑事から、できるだけ遠のいた山間僻地での原始的な農耕生産での自治生活→共同体、という方向がでてくる。

だが〈共同体〉維持と継続の最低基盤である〈自活〉は、環境のきびしい条件と、自然そのままの生産性の低さによって、すこぶる困難なものとなる。そしてそれを克服するためには、くるしい過度の、最小必要メンバーによる最大能力を尽くした共同労働が要求される。(さもなくば、当初に相当額の巨大な資本の投資、あるいは援助財団等からの毎月の不足必要品及び生活資金の交付などが必要不可欠である。) まず食うためーという第一歩の自立のためーに、ともかくしゃにむに働かねばならない。自由も解放もその次である。ーそして共同体は、食うことに追われる共同生活そのものになってしまうおそれを持つ。

「そんな山奥までいって、わざわざ共同体をつくるのは、あまり賛成やないらしいけど、、それならあんたは、都会で、どうしてつくる。云うたら、どうしてもつくる云うたら、どんなもんを考えるのや?具体的にわかりやすう云うてくれ! …暴力論ノートでまず二人の共同生活でも…とかいてあるけど、そのあとどうするということや」ある日A君がぼくに、こう質問してきた。

そこでー共同体は、その根底は〈人間関係〉である。ということは、それは〈組織論〉の問題であり、また〈技術論〉として共同生活技術の意味が、よく把握されねばならない。しかしここではもうそれは充分に検討されたものとして(なぜならばそのことは山奥でも市街でも共通することだから)ーきわめて思い付き的に「そやな、ぼくやったら3・4人(そして一定の資金)の仲間があるとしたら、一定期間の準備とトレーニングのあと、〈多目的なクラブ〉みたいなものを、基地、軍需工場、その他現在闘争中の現場周辺につくるなァ」と云った。「そしてそこがカッコついたら、次をさがしてうつる・・・」