「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

IOM 132号 

  • 自連で何をやってきたか3 ー思いつくままにー

 ○ 「あなたが、旧日本アナキスト連盟の再出発を企てているという話をききましたが……」という手紙をもらった。どこからこんなとんでもないウワサ?が出るのか。多分、平新・クロハタ・自連の合冊本をつくってるのが、まわりまわって誤伝されたのだろう。「そんな気は全くない。」と打消しておく。

 ○ 高島洋詩集が八月十日頃刊行される。旧イオム同盟員が肝いりで出版記念の集会をひらきたい。イオムの仲間では最初の第一詩集。これをさかなに一パイのもう。十年ぶり?に酔ってクダまきたい。

 

  • 自連で何をやってきたか3

     ――おもいつくままに――

(一三一号よりつづく)

 『……模索し試行しているだけで、いつしかぼくらは、自由連合と同衾した夢をいだいたのではないか。……』と前号にかいたら、黒川君から「ぼくは一度もそんな幻想をいだいたことありません」という返事がかえってきた。黒川君にしてそうなら、小池・大山君もまた同様であるだろう。

それは、ある意味で、自連の発行・経営が、つまり模索でも試行でもなく、自由連合の具現ということにほとんど無関係で、一般的なそこらの新聞と大差のない意識〓意識に傍点〓のまま新聞が出されてきたのを意味するのではないか。(試行なんてかいたりしたのも口先きだけで、そう云えば、どこにもその形跡はない!)

 つまり<自由連合>と何らむすびつきもなく、またそれへの積極的な志向もなく、ただぼくらには<自連>の発行だけがあったのだ。<自由連合>というのは、単なるスローガン的な床の間の置物で(ほこりをかぶっていてもないよりはカッコがつく)、ただそこにあるだけの、それ以上でも以下でもないシロモノだったのだ。

 そのように、ほとんど個人として、又編集社員として無関心だったがゆえに、夢さえもいだかなかった、ということなのではないか。

 

 『自由連合の意味と内容を、他から与えられた論理としてでなく、自連に関係することで、その日常の営みから実感的〓実感的に傍点〓(それゆえはじめは無自覚的にも)に現実のかたちとしてつかみ、技術をふくめた<関係>〓技術をふくめた関係に傍点〓としてつくりあげていく。第二にそのような試行によって……』(イオム一三一号裏面上段十二行目)と云うそれは、このような情況において――試行も模索もなされなかったことで――まったく第一歩から足ぶみをしていた。とすれば第二・第三・第四とすすむべき――そして自由連合の具現、あるいは自連社での小さな達成――がどうして可能となりえよう。

 自由連合を、<実感的>につかむための試行・模索――そのひたすらな努力なくして、ぼくらはまるで天から何かがふってくるように、<そのとききみは……>などと、言葉だけをもてあそんで、ある意味では、読者にないものねだりをしていたのである!

 

 このことにすこしも気付かず、またこのような状況のままで、何とかなるという楽観で、見当ちがいな考えで、放置というよりも、自分の責任を放棄していたのはまさにぼくであり、ぼくが消極的立場をとることで新しい社員が出てくるというような、まとはずれな自連社との関係の仕方であった。

 そういえば自連紙において、ぼくらは何と<自由連合とは何か>について、語ったり討論したりすることがすくなかったことだろう。直接、わずかに触れたのはひとつふたつの論文のみで、しかもぼく以外に、それを問題意識としてとりあげているものは、ほとんどないにひとしい。自連紙においての<自由連合>はその意味で内実をともなわないカンバン、あるいはスローガンであった。いやそれ以下のもの、読者にとって自由連合は無縁のわけのわからぬものであったと考えてもよい位だろう。(<自由連合>ということばは、世間一般の人々にとって、ほとんど耳新しいものであって、概念として、ひとつの意味を定着させてたものになっていない。つまり一般社会で、自由連合ということばは<自由な連合>というふうに国語的に解釈はできても、内容的には存在しないものというべきだろうか。そして自連紙をよんだことのある人さえ、自由連合を論理化してとらえることが閉ざされている時、それ以外のはるか多くの人々が、自由連合の名さえも知らぬのはあたりまえと云わねばならぬ)

 

 以上を大まかに要約して、自連でぼくらは何をやってきたか――或は、やるべきであるのに何をやらなかったか――を列記するならば、

 ① 月一回、約三年半、ガリ版平均八頁の<自由連合紙>を発行してきた。

 ② その発行に附属する事務と労働と諸費用を自前の力で非営業的にまかなってきた。

 ③ <そのとき、きみは……>というかたちでの組織論を読者につきつけることで――自連社―社員という新しい概念の組織を追及しようとした。

 ④ はじめスローガンとして、ほとんど無意識的に志向していた<自由連合>を、右の過程のなかで、具現しようとした。

 ⑤ その<論理化>という形での、自由連合の内容と意味の具体的な把握については、殆ど何もなしえなかった。

 

    <①②の問題>

 このうち、①と②については、ミニコミとよばれる他の多くのものと、自連とそれほどの相違はない。

 ただ云うなれば、自連は、きわめて明確に<技術主義><事務主義>の視点と立場を打ち出した。それは完全に実行されたとは云えぬまでも、当初ぼくがつくり出した方式や形態は、強く最後までのこった。他から文化技術主義といわれるていどに<理念>として、自連社に出入りする一部の人々をとらえた。また<封筒の宛名がき>などを例として、ある部分は論理となった。このことによって(この方向の深化と推進によって)実は、ぼくは<自由連合>の具現化がおのずからはじまる、とおもっていた。

 まずはじめに、数人の編集社員のなかで。ついで自連社に常時出入りし、その雑務をそのつど手伝う小数の読者たちに。さらには休みなどをとって自連社を一日または数日訪れ滞在する各地からの来訪者たち(――彼らも自連社へ立ち入ったが最後、お客ではなく、すぐその事務・技術の習得と駆使を要求される――)あるいは、各地へ出かけていって(又は来訪者が帰って)その現地での読者会(そのやり方すすめ方を拡げること)によって、またそれらのうごきをおのずから反映する自連紙面によって(そしてこのようなうごきとひろがりが)各地の読者を一そうゆりうごかし、自連社訪問と社員間相互交流の大きな流れをつくり出し、自連社に新しい何かをもたらすと共に、彼らも何かを自連社に関わることから持帰ることによって……というふうにである。

 いうまでもなく<自由連合>は、組織論であると共に、関係論である。(また認識論である。)

 このような、人間の、技術・事務を媒体とする関係、交流を経験的に思想としてとらえなおし、かつ現実にあてはめて論理化することで、自由連合論はおのずから浮かびあがってくるだろう、というのがぼくの期待であった。

 だが、それらの根本となる技術や事務は、いうまでもなく、日々毎日の実際に仕事を遂行する、その具体的なやり方だけでなく、その実践・習熟・練達、それへの意慾とふかくむすびついている。(それは職人的なものを一歩つきぬけた<創造>なのである)。教科書を頭にしまいこんだようなものでなく、それは手で、体で、心で、その運動――労働――によって表現されて、はじめて本当のものとなる。

 そして、技術や事務を媒体としての関係とは(実はおしゃべりや文章は補足であって)手や体のうごきを通しての、それにほかならない。

 

 と考えるとき、ぼくらの自ら〓みとした<技術主義・事務主義>は果してそのようにありえたか。他から<文化技術主義>を誹謗して受けえざるをえないような中途半端のそれではなかったか。

 

 ふりかえってみると、自連一号~四号のあいだは、自連の紙面づくりそのものが、ぼくにとっては(やや誇張的に云えば)新しいものの創造(あれがソレホドのものか、と今なら云えるだろうが、そのときは全くゼロから形をつくっていくことで)そうだったのだ。

 一方、当時在欧中の大山君は、フリーダムその他の出版活動にふれ、帰国したらそういう仕事をやりたい。自連発行を手伝いたいといってきた。そして帰国してすぐ姫路へやってきたが、それは丁度、六号の編集を終ったころだったろうか。(彼はそのご沖縄ワークキャンプへいき、それからハンパクがあった。そこで自連の設備一切をハンパク会場へもちこみ、大山君を編集長にして<日刊ハンパク>を出した。これは自連発行のトレーニングの意味をもっていた)、そして、その終了後、設備を大阪Aアジトにおき、大山君に責任を移して、自連を大阪から出しはじめるという経緯になる。

 ぼくが大山君に、自連編集のバトンタッチをしたのは、ぼくがすでにつくりあげたものを、さらに完成する――というのでなく、彼自身の、ぼくと異質の新しい何かを持込んでもらうこと、そこで新旧の相克・衝突があって、さらに脱皮した自連が出現することへの期待からであった。

 ぼくが彼に、自連として伝達したものは……              未完

 

 

暑中お見まい 申しあげます

    午後二時“サルートン”はナント三六度でエーす。発火寸前!

                              一九七二・七・二九

 

  雑記     告! イオムをつづけてよんで下さる方は、二〇円切手貼付自分宛銘記入封筒を数枚送ってください。

 

○ ここ数号<自連をつぶす>ということの、私的な文章ばかりで、さぞよんで下さる方はタイクツでつまらぬだろうと思う。 一応ぼくの私的メモとして書いてるわけで、書くことで問題を追求できるし、こわす方法が見出せるからである。ひとり芝居に終るかもしれないが、これからの自連のつぶし方とあわせて見て下さい。――以下自連読者――

○ 自連終刊号四〇号は、多分八月十日までに出る。但しそれは四〇号の第一分冊といったもので、残務整理のための――自連を完全につぶし切るまで――あと二ヶ月か半年か、はたまた一ヵ年(そうもかからぬと思う)の間、つづいて四〇号のその二・その三が出される予定。

○ 残務整理といえば、ぼくやいわゆる編集社員がやるものとおもったら、大マチガイ。必ず自連読者へもトバッチリがゆくだろう。とくに大阪周辺の人たちには風あたりがつよくなる。自連をつぶすのは自分をもふくめて、その関係者、読者をもつぶすことなのだ。

○ と、そう判ったなら、こちらから呼び出されぬ前にまず自連へ連絡をとり、身支度?をして自連社へやってきてほしいものだ。八月一日から七日までとくに集中的に、全国各地からきてくれることをのぞむ。

○ これから、自連社では、てってい的な自連のハカイがはじまろうとしている。最後にそれをしもなしえないような<社員>は<そのとき>の社員ではない。

○ 『四〇ゴウキトク。ウナコイ ジユウレンゴウシャ』きみがあつさに呆けてひるねしているとき、はげしく戸をたたく――デンポウ――の声がきこえないか。

○ 自連に今迄よせられた各地のミニコミ・印刷物・ビラ類等一切は、簡単にでも整理して、富士宮の文献センターへ送るつもりである。

○ サルートンの部屋への来訪者・滞在者は、六・七月はのべで、多分二百人を優にこえただろう。

 

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