「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 41号

「立場を超える」ということ

   --ひもり孝雄君の死の意味のために--

 

一 はじめに

 三月三〇日パレスチナ「土地の日」、日比谷公園かもめの噴水池のほとりで、ひもり孝雄君は、「自爆死」よりも烈しい「焼身死」を遂げた。この稿をかくに当たって、そのことにも若干ふれるので、まずはじめにぼくの立場のようなことを明らかにさせておきたい。

 ぼくの信条は、いささか時代の手垢にまみれているが「反戦」「反弾圧」「反差別」である。そして生き方としての「非暴力直接行動」、「個人責任」、「反政治」、をほとんど一貫して主張してきた。

 いささか長い、八十年というぼくの生涯がすっぽりとはいるこの二十世紀を、仮に「社会主義運動興亡の時代」と呼ぶとすれば、この世紀の大きな流れの中で、ぼくは「反運動的運動」(これについては中島君発行のAir十号でちょっとかいた)板切れ、あるいはアナキズムという小舟につかまりながら流れ、流されてきた、と要約できるだろう。

▲(註)ひもり君がはじめて犬山を訪ねて来たのは、〇一年の七月中頃だった。それが何かの会合で出会って、「いちど犬山へ遊びに訪ねてよろしいか。」「ああいいよ」ぐらいのやりとりだった。「午後三時に伺います」という予告をして一分たがわず来たのが印象的で、そのご十数回の訪問でもいつもそうだった。

 彼がもってきた一升瓶を空けながらの雑談が、そのときたまたまぼくの「反運動論」になって、それがついつい暁け方の午前三時すぎまで。

 多分それは、専らその頃彼が専念していたJRA獄中者救援上の運動関係と関連していたのでなかったろうか。ぼくはそれを議論でなく、例えば人との話し合いの仕方、デモや集会のやり方で具体的にやっていくことをすすめた。ひもり君は聞き上手というか、しかも率直な核心にふれる質問をした。ぼくと問題意識が全く共通していて、アナとかマルということでの差異は、不思議なほどぼくの意識にのぼらなかった。

 そしてそのご毎月、はじめ一泊だったのがいつも二~三泊、月によっては二度も来易くやってきて、ぼくが眠ってる午前中は、本棚整理から風呂洩れ修理、テレビアンテナ直しまでやってくれた。そんな雑用をさがし出して、訪問の口実にしたともいえるほどだった。だからぼくのうちには、彼がやる次の仕事がいくつもあって、そのため彼が置いていった工作道具が残されたままだ。

 

   二 「非戦」について

 二十世紀につづく新しい二一世紀は、〇一年九月十一日の同時多発テロで、国際情勢を一変することからはじまった、といえるだろう。

 ブッシュは世界の諸国家・人民に、「アメリカに加担同調しないかぎり、すべてテロリストの側とみなすと宣告し、その二者択一的アメリカへの忠誠を迫った。

 それに対して日本の多くの市民運動は、「テロにも戦争にも反対」ということで反戦の集会やデモを提起した。がしかしその呼びかけビラに「私たちは非暴力を主張している。だから暴力を肯定するような人々の参加はお断りする」と書かれたように、それはまず何よりもテロを、つまり暴力を非難否定することで自己保全的アリバイ(反テロ)を意味するものでしかなかったと云える。

 とすれば、たとえ「お前はテロの味方か」と云われようとも、非暴力直接行動者としてのぼくの立場をいま「非戦」として表明をすることで反日、反米、反国家の立場を明白にする以外にないと思った。

▲(註)「反戦」でなく、「非戦」ということばを使うことで、それはより強く「戦争的手段を拒否する決意」を、自分自身にはっきりさせようとするだけのものだったから、十月中旬、田村スマコさん発行のステッカーになって(数千枚?)配られ、貼られた。また無関係ながら、〇二年一月十日発行の坂本龍一氏らが命名し編集した「非戦」(数万部売れ、多少評判になった)ぐらいのことだった。

 ところがひもり君は九月下旬、「非戦」と大書きしたムシロ旗の前で、パレスチナ連帯を訴えて数人の仲間と、日比谷公園でハンストを三日間やったと後日きいた。その「非戦」の旗は、その後アメリカのアフガン空爆に反対するデモで中島くんがひもり君に出会った時、手渡されて持ち歩いたということだった。

 一見しごくあいまいで唐突な「非戦」のその内容的意味について、ぼくは全くひもり君と語ったことはない。にもかかわらず、ひもり君は「非戦」を率直に自己のものとして受けとめ、それを大きくかかげた行動の最初の人だった。

 そして、ひもり君とぼくとがより近づいたのは、テロに対するこのような立場の共通性がその一つといえるかもしれない。或いは社会一般の反テロの風潮に対する見解の暗黙の一致である。

 

  三 テロの問題

 たしかに九・一一のテロは全世界を震撼させた。その結果を見ることなく瞬間に死んでいったテロ実行者にとっても、その結果の大きさは予想をはるかに超えるものだったろう。

 しかしテロの問題の第一は、権力をにぎり、支配と搾取におごって省みることのない富者・強者・権力者が支配する、あまりにも不条理な日常を、とくに滅茶苦茶に踏みつけられている窮民・弱者の存在とその無視、放置、それを窮民とさせている制度・政治機構、国家体制にある。

 第二に、では「テロ」とは何か。いうまでもなくそれは弱者の強者に対する支配の拒否であり、それをあらわす叛逆の最後の意志行為である。個人の生命を賭けることにおいて、もう勝敗を超えたところから出る--やむにやまれぬものといえようか。

 第三に、具体的にいえば、パレスチナの十八歳の少女が「もう私に残されたものは何もない」という言葉を遺して「自爆」したその抗議行動に、テロの意味が特によく示されている。そしてそれがテロの出発点である。そしてそこに現れたテロ暴力の何よりの特徴は、相手の虚をつく瞬発的な捨身の一回性である。いつも必ずそれが、それの終着点でなければならないという問題を改めてつきつける。

 テロはそれゆえに、決定的な戦闘力、あるいは打撃効果たりえない。相手の支配土台をくつがえす直接決戦的な打撃戦術ではない。(それが発展し集団組織化してゲリラ、パルチザンの遊撃戦となる。そしてしばしば報復的反撃を招いてかえって状況を悪化させる事態をももたらすものともなる。)

 このことは、九、一一以降ほぼ八ヶ月の事態の推移をみれば、ほとんど明らかである。(ただ弱者がとにもかくにも強者になにがしかの打撃を与えたことの切実な意味において、状況をかえる以外、根絶できないだろう。)

 だがそれ故に、テロが有縁無縁の市民を巻き添え的死傷を必然とすることの、どうしようもなさがある。もう最後のどうする手だてもない、自分の身命を捨てた賭け、屈服の拒否・抵抗・攻撃であるとしても、当然その是非が問われることは免れえない。

 (もっともテロ実行者がもう死者であることで云えば、もはや理由を問うことは出来ないという意味で、ことの是非を超えているともいえる。誰がどう何を裁きうるのかの課題としても、いま生きている者--ぼくらに応えることのできない答えを迫るものでもある)

 第四は、第三で明らかにしたこと--テロは決定的暴力(戦闘力)たりえない--。にもかかわらず、その結果は多くの人々のシンパシイを喚起する。または不測の恐怖としてひろまる。そのことから次の誰かにテロが心情的に承継され易い状況をつくり出す。そして、戦術として党派などが政治的に利用するという現実がある。(自爆について、党派から「犯行声明」が出たように。)

 換言すれば、テロが弱者の命をかけた「志」であるゆえ、おのずから報復の意志の後続継承をつくりだす。そのことでテロは、一回性の結果だけに限定されないで、むしろそれを契機に呼び起こされる社会心理的な被害者想像力の、拡散誇大化をこそ「力」とするとさえいえるだろう。それは物理的な暴力の「結果」以上に、むしろ「暴に非ざる力」として対抗する「非暴力」の「力」--想像力--になる。

 第五は、それ故にテロの政治性の問題である。例えばアメリカはテロのその「被害想像力」を、逆手にとった政治的戦略として、「反テロ」戦線を世界的規模で拡大してつくり出そうとしている。つまりテロは「両刃の剣」であることをも見定めねばならない。

▲(註)ところで、テロの政治利用と関連する仮定として、「もしいま、あなたがテロの実行を打明けられ相談をされたらどうするか」とある人に反問を受けたことがある。ぼくは「それが、事前であれば、たとえ自分の命を賭けても中止させるために全力をつくす。」「それが実行したあとの仲間からの告白としてうちあけられたものなら、もうどうしようもない。その爾後措置を共に考えて、テロ関係者をどう守るかを考えるだけだ。」と答えた。それがいまの「ぼくの立場」である。

▲(註)ひもり君が「死者」についていった言葉がつよく印象にのこっている。去年の十二月はじめ、「黒」の集まりを持った時、ひもり君も顔をだした。九・

一一のことで、議論が紛糾した。A君は「テロにも戦争にも反対--という言い方には組したくないが、あのテロを支持することはできない」といい、B君は、「朝日新聞に連載されてた実行犯とされるアタには共感するところがあるが、しかし、組織の命令でやったとすれば、戦前の日本の特攻隊と同じではないのか」といった。その他にもいくつか意見があったあと、ひもり君が最後に

「たとえ軍の命令だろうと、自ら進んで志願したにしろ、人を殺し、自分の死を覚悟するには、何度も何度も個人としての自分を見つめて問い直すということがあります。最後は個人として個人が死ぬんです。・・・」と、それこそ決然とした口調でいったのだった。

 そのときのひもり君の様子には、何とないすごみのようなものがあって、みなしいんとした。

▲(註)これはぼくの憶測でしかないが、九・一一について旧JRA一部から出された政治的主張に対する、ひもり君の立場は、かってリッダ闘争でのバーシム奥平、サラート安田、オリード山田ら三人の死とも深く関連して、ひもり君にとって、「その彼らの<遺志>の継承と再整理」として、三十年後の三月三〇日の最後まで容易に言葉などではつくせないものだったのでなかろうか。

 ひもり君は「黒」八号「水平線の彼方に」でこう書いている。「抑圧の側にありながら、解放の立場に立とうとする者は、侵略と抑圧への抵抗と叛逆を無条件で支持するしかない」「いま求められているのは侵略・抑圧者を対等のテーブルに引きずり出すための国際連帯をゆたかにすることであって、<反テロ>大合唱に加わることでは決してない」「僕は九・一一闘争を無条件で支持する」「七二年リッダ闘争に至る再整理は、九・一一を経て自分自身がどのような立場に立つかの再整理である」・・・と。

 そしてこのような時点での、「自分自身がどのような立場に立つかの再整理」とはどのようなものだったのか?

 

  四 生命力としての「暴力」「非暴力」、その「擬似化」

 「政治性」と絡んでちょっとだけ脱線する。--

 いまから凡そ三〇年前の七〇年とその前後は、日本の運動内でも武闘化が起こり、暴力闘争がしきりに主唱された時期である。その風潮に対立しながら、ぼくは「現代暴力論ノート--非暴力直接行動とは何か」を書いた。その要点をすこし表現をかえて抄記してみたい。

イ 生まれてきて死ぬまでは、人間はいつも生きようとし生きる。それが「生命力」とも呼ぶべき人間の本能である。暴力も非暴力も、個体的生物としての人間の、本能的な「生命力」である。それ故に生命力そのものには、まず本来善悪はない。しかし他者との関係においては可も否もある、というべきであろう。

 ロ 暴力とは何か。あえていえば固体の生命維持のための自己防衛力であり、フィジカルな物理力を以ってする他者への関係的積極性、ときに攻撃性である。また、その直接性・可視性によって競争的関係としての強弱・優劣・勝敗の帰結を決定する。しかもその決定結果は(集団でなく)、個人(固体)へと必ず収斂せざるをえない。(例えば機動隊員の「公傷」が、何某個人の肉体的苦痛の問題でしかないように。)

 ハ 暴力は、1「物理力の行使」、2「加害の意志」、3「支配の強制」の三要件を具備して成立するものである。とくに1は特性として可視的で直接的であるため、即座に結果としての成否や勝敗を明白にあらわす。つまり「同じ条件」なら物理的力が大きく優れた強いものが結局必ず勝つ。勝敗がわかりきった強者と弱者の暴力沙汰は、ふつう成立しない。弱者は我慢して手出しをしないから、強者--権力--の支配によって、弱者の社会的日常秩序がつくられている。

 (拳闘やプロレスは、同じ条件で、しかもルール(条件)にのっとって、万人衆視のリング上で技術や偶然をふくめての勝敗を楽しむ、1の意味だけで2、3の要件を取り去ったことで成立するスポーツである。だから物理力の行使であっても暴力ではない。2、3が加わってはじめて暴力となる所以である。)

 ニ 非暴力とは何か。これは不可視であり、間接的行為としての日常性ゆえに、ふだんは全く無意識下に発現あるいは状況として存在している。しかしそれをたとえば暴力の要件のうちの1だけを取り去り、その他のすべての営み、2、3をも含めながら、生殖・労働・遊戯・創作などとしてあげるとき、その生命力的働きのさまざまはおどろきとなるだろう。人間の個人的、社会的いとなみの日常は、この生命力としての非暴力(暴ニ非ザル力)によってほとんど保証されている。

 ホ しかし非暴力ゆえにすべて善なのではない。物理力行使--暴力の1の要件を意識的に避けて、2又は3の性質だけをもつ--いわば「底深い悪意」のようなものはどうなのか。たとえば「いやがらせの無言電話」とか「ほめ殺し」とか「物理力の行使」を欠くものはどうか。云うならば明らかにそれは非暴力である。しかもそれらを一般日常社会では、しばしば「××の暴力」とか云ったりするように、また「暴力的××」などと多用されつつほとんど混乱・混●してしまって、「非暴力」とか「非暴力的」という認識はまるで無い。暴力の可視具体性と非暴力の不可視抽象性がそうさせているという外ない。そして、世人一般は、ふつう非暴力についての即時的な意識や認識はまるで持たないのである。

 その上で、吾々の日常社会のなかで、一般的な善悪として「暴力は悪」となるのである。(このこととテロへの一般認識とは決して無縁ではない。)

 ヘ つけ加えるならば「暴力」「暴力的」は、物理力の行使がないかぎり論理的にいえば「非暴力」「非暴力的」なのである。もっと正確にいえば、それは「擬似非暴力」というべきものである。なぜ「擬似」か。その何よりの特性は、それが「生命力」と全く無縁の「力」の作用だからに外ならない。そしてこの擬似化に政治体制がからむ問題が現代暴力論の核心なのである。

 ト 「擬似化」とその「政治体制」・・と云ったが、ここではその内容に立ち入って深く立入れない。が短絡していえば、(近・現代史をみるまでもなく)現代社会では、直接的に暴力で支配を維持することは殆どない。例えば監獄ですら、法規法令の定めるもので成立している。それは選挙という人民から選ばれた代表によって承認されたものであって、いわば自己承認したものによって、といわねばならない。獄中日常の暴力的処遇は暴力でなく、擬似非暴力体制として発動している。

 そのようにかっての王制・強権国家は、今や「民主主義」で「自由な国家」である。それへの異議・抗議は、唯一「選挙」のみしかない。それ以外はすべて「非合法」であり、暴力の圧倒的機構であり、専門組織である「警察」「軍隊」によって直ちに「犯罪」として合法的に弾圧され逮捕されて裁判にかけられる。

 このような「擬似非暴力体制」に対して、最後の最後として「支配の拒否」を意味するものが「テロ」であるとき、それを簡単に悪として非難し去ることができるだろうか。(この補稿として黒3号掲載の「ああ、選挙」を参照してほしい)

 その上で、生き残った者や、組織的な政治利用としてのテロを否とする非暴力直接行動の提起がようやく出てくると云わねばならない。

   六 戦争とテロと政治

 さきに「暴力は物理力が大きく優れて強いものが結局勝つ」と述べた。もっとも「同じ条件なら」という附則がつくが、至極単純で明快な原理である。明快ゆえに、たとえ暴力団間でも対等でない場合の本格的暴力事件は当然起こらない。起こるとしたら、個人に収斂することで決着する「玉とり」だが殆ど映画の世界である。

 戦争は、地方又は国家単位で、紛争紛議を暴力というよりも組織的な軍隊で争い、その打撃力の勝敗によって一応の決着をつけようとするものといえる。この場合、圧倒的な強者としての大国は物理力を行使しなくとも、その威脅力だけで既成の権益を守り、更にその増大をはかることができる。弱者である小国の抵抗はその物理的軍隊の壊滅によって終わる。このことは歴史が教えていて例外はありえない。それ故に戦争は二者間に紛議紛争が根強く存在して解決しえないことに加えて暴力的な強さが不明確で、「条件が不安定」であるような条件下でしかめったに起こらないといってもよい。

 こんどのアメリカのアフガン空爆やイスラエルのパレスチナ侵攻は、それ故、戦争ではない。一方的な虐殺である。

 二十世紀社会主義運動の、その他の運動によって被支配民衆の自治あるいは解放・独立が主張され、腐敗した既成権力の暴力的、あるいは懐柔的な政権の奪取又は転覆、交替の組織化された政党党派から、ゲリラ的組織の合法、非合法的出現と社会秩序の問題がある。そしてこのような事情のなかから、テロもまた出現しているといわざるをえない。それ故にテロは、圧倒的な支配抑圧を以って君臨する絶対的弱者がその生命を賭してする最後の個人暴力抵抗であり、勝敗をこえた生命力の攻撃であり、支配の拒否である。

 にもかかわらず、またテロが、いつしれずその生命力的意味を失い、物理力そのものと見なされるおそれをもつ、ということの危険を、(「暴力」である故に)いつも胚胎しているといわねばならない。つまりテロの死者を見送った生者であるぼくらが、ついついテロの結果を価値評価的に云々することで、テロを、強者との闘争方法あるいは戦術として利用するというきわめて政治的な現実の問題である。(その上でいえば、「黒」六号「難波大助の時代」でかいたように、テロを志して遂に実行の条件と機会が来なかった無名の大助が、その背景に何百何千人いたこと、それ故にテロの稀有ともいうべき実行可能性を考えられねばならない)

 

▲(註)彼がリッダ闘争について「水平線の彼方に」でかいた以上にやや意識的にきかなかったこともあるが、ひもり君とは、暴力・非暴力について直接話し合うことはなかった。そして彼が「パレスチナへの方々へ」とした遺書に「平和的であれ暴力的であれ、人間の尊厳を回復するための抵抗を無条件に支持します」という一説をみて、これこそが非暴力直接行動の立場を超えたNVDAの立場だとおもった。(これは、まだ走り書き)

 

(*ひもり君には 一身に一ぱいの

仕事をかつぎ 多くの人へのおもいを

もってていた そのすべてを三月三十日

一身にあつめて

炎としてもやしつくして

焼身死た その炎となった。)