「鵜飼町666──水田ふう・向井孝の書棚」は水田ふう・向井孝が遺した、ふたりの手になる印刷物と、未知の仲間との接点をつくることを目的として開設されました。 第一弾として、ウリ-ジャパン機関紙「非暴力直接行動」全号を掲載します。 以降、第二弾、第三弾として、水田ふう個人通信「風」、向井孝個人通信「IOM」の掲載予定しています。  毎月6日に更新します

風 50号

  • やっぱしガンやったわ
  • 連続講座(その1)を終えて――

    裁判員制度と死刑――と銘打って連続講座を思い立ったのは、いままで「死刑」のことにあまり関心のなかったひとも、この制度によってむりやり「死刑」の判断をせまられることになるからや。「人を裁きたくない」と思ってる人はけっこう多いと思う。(それは世論調査の結果にも出てる。)そこで、自分の問題として「死刑」を考える機会になるような講座をやりたいと思ったんやった。

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風 49号

  • ひとは夢でつながる。その夢は、ただの夢ではない。ー死刑廃止!!殺すな!!105人デモを終わって

今年の初め「十月の世界死刑廃止デーにデモをしよう!」と、思いたった。

 それからというもの、ひたすらデモだけできたもんやから、終って一週間になるというのに、まだ頭の中をデモがぐるぐるかけまわってる。
 翌日はなんともなかったけど、二日目あたりから足の付け根、背中、腰が痛くなってきた。(なにしろ先頭にいったり後にいったり、転んだりして走り回ってたから)喉もかすれ気味。右腕がしばらく痛かった。(マイクで大声を張り上げてたせいや)

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1年に1度くる日【おさきまっくろより転載】

 橘宗一墓前祭が毎年おこなわれるようになって、今年で三十三年になる。橘宗一といってもその名を知る人はほとんどいない——

 一九二三年(大正十二年)九月、関東大震災のどさくさに軍閥は流言を放って、何百人とも何千人ともいわれる朝鮮人が民衆によって殺され、平沢計七、河合義虎など九名もの南葛飾の労働者や主義者が習志野騎兵隊に殺された。この不穏な状況下の十六日、大杉栄は、ようやく消息のわかった弟勇一一家とそこへアメリカから来ていた妹あやめの息子宗一の様子を気づかって鶴見へ野枝さんとでかけたんやった。そして、家にくれば魔子とも遊べるしと、連れて帰る途中、大杉、野枝と共に憲兵隊に連行され、三人ともそのまま虐殺されてしまったんや。
 宗一は当時、まだ七歳の少年やった。

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風 47号

  • たまには家からでて・・・水田ふう


 けさ起きてラジオをつけたら、「日曜訪問」いう番組がはじまってた。作家の佐木隆三が出てきてしゃべってる。三十何年か前に直木賞を受賞した『復讐するは我にあり』の改訂にとりくんでるそうなんや。当時、わたしは奥崎謙三さんからごっつ推薦のハガキをもろて、映画の『復讐するは我にあり』の方を先に見て、やっぱり面白くてあとで本までよんだくらいやった。
 ところが、佐木隆三はずいぶん前から、まるで警察と検察の手先のようなことばっかり云うようになってたんや。オウム事件なんかでさかんにテレビにでてきて、弁護士が裁判をわざと遅らせてる、とか。わたしはねまきのまま、聞き耳をたてた。
 長年の裁判傍聴でなにを見てこられましたか? の質問に、このひとはこんなふうなことをこたえてた。裁判で被告は丸裸になっていく。人間とはなにかということを考えさせられる。刑事事件にぜひ関心をもってほしい。そう云って、裁判員制度をえらくもちあげてみせるんや。
 「改訂」いうて、きっと書いた時の自分の立場を「修正」するんやわ。丸裸にする側と、立場をおんなじにしてしまったんやからな。
 警察の取調べいうもんがどんなにいい加減で意図的なものか。そして、起訴されたら百パーセント近くが有罪になってるような、ひたすら量刑だけをやりとりしてるような裁判。裁判員制度いうのは、その迅速化、簡略化をめざすものなんやろ? と同時に、個人の思想信条の自由をも剥ぎ取って、それこそ丸裸にするもんや。そして、どんなデタラメ判決も「国民が参加していっしょに裁決した」という云い訳がつく。まあよう考えたなー、というとこやけど、「民主主義制度」いうのは、なるほど上手にひとをだます制度のことなんやな。
 ほんまになあ……ため息ばっかりや。……

風 46号

  • かくもなおすも恋のみちかな

私が向井孝さんといっしょになったのは一九七四年。いっしょになったいうても、なかば押しかけや。大阪阿倍野の六畳と四畳半きりの狭い文化住宅。そこに「サルートン」と小さい板切れがぶら下がってた。エスペラント語で「やあー、こんにちは」いう意味なんや。サルートンは向井さんの自宅兼アジトで、毎日いろんなひとが出入りしてた。そこへ私はミシンと冷蔵庫と布団を積み込んだ軽トラで、東京から越してきたんや。その時、私二七歳。向井さんは五四歳やった。

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風 45号

  • わが忘れなば・・・ 「女掠屋リキさん伝」刊行案内

 『女掠屋リキさん伝』が、やっとできる。今月中には印刷所に持っていけると思う。今年の三月の終わりに一応第一校をおえてたんやけど、そのあとでまた大幅に手を入れることになってしもて、夏の暑い盛りにも毎日毎日手を入れ続けて、やっと今日、宣伝を兼ねて「風」をつくろ、と思いたった。

 向井さんに連れられて伊勢のリキさんに会いに行ったのは七四年のこと。そのとき聞いた「聞き書き」をもとに一度六〇枚ほどにまとめたんやけど、それきりほったらかしのようになって……。「女掠屋リキさん伝」ふう&こう――として「風」に連載しだしたのは、リキさんが亡くなった九年後の一九九六年やった。それを九八年の十一月まで一四回続けて中断。なんとか切りをつけようと〇三年六月の「黒」に連載一五回を唐突に載せて未完的完了にしたんやった。

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風 43号

  • 立場としての非戦
  • 九月二十四日松本で非戦フエスタが催された。この企画は大鹿村の田村寿満子さんが発起して、友人たちに呼びかけて実現したもの。その呼びかけは長野・塩尻・伊那・松本etsとひろい範囲にひろがって、当日は東京や名古屋や遠くからも、年齢も仕事も運動の好みも様々な人たちが集まった。ゲストの一人、立川自衛官官舎ビラ入れで逮捕されたさっちゃんが「ヒッピー系、パンク系、硬派、軟派運動系、こども連れ、なに系とも表現できんいろんなひとたちが同じ場所にこんなふうに集まるなんて、俺ほんとに楽しい」っていってたけど、わたしも、この日は「非戦」についてしゃべるように寿満子にたのまれて参加したんやった。で、今回はその報告。 続きを読む